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山中鹿之助を勉強すればするほど、面白くなってきました。

なぜかというと、先代・玉秀斎との繋がりが濃厚になってきたからです(笑)。

もしかすると山中鹿之助は武田信玄や真田幸村との繋がりあったのかもしれません。

先代が遺した立川文庫第17編『武士道精華 山中鹿之助』(明治44年発刊)のはじまりは信州から始まるのです。

ふふふ。
山陰の麒麟児が出身は信州なんです!!!!

皆様、ご存じのように、真田十勇士を広めたのは先代・玉秀斎。

世の中に猿飛佐助を広めたのは立川文庫第40編『忍術名人 猿飛佐助』では九勇士まで揃ったんです。
揃っていなかったのは根津甚八。
そして、大正2年に出された本で十勇士が揃い、十勇士という名称も使われるようになりました。

実は、十勇士という名称を使い始めたのは山中鹿之助が筆頭の尼子十勇士なんです。

多分ですけど、立川文庫『山中鹿之助』が多くの方に読まれ、その中で登場した十勇士も大人気になったことが、ずっと頭の中にあったんではないでしょうか。

そして、猿飛佐助を書く中で、それまで六勇士しかいなかったところに三人足して九勇士まで増やしました。

その増やし方がまるでマンガです。
猿飛佐助が密命を帯びて旅をし、その途中で由利鎌之介、霧隠才蔵という敵と出会うんです。
彼らと激闘を繰り広げ、戦いのあと、由利鎌之介、霧隠才蔵を仲間にするという物語。
なんか見たことある景色でしょ(笑)

この猿飛佐助が売れまくったときに、きっと玉秀斎たちは思ったはずです。

「あと一人で十勇士になる!!!!」

こうして、立川文庫は発刊が続けられ、第50編『大坂城冬の陣』(大正2年8月発刊)で「何れも真田十勇士の内」という表現がでてくるのでした。

もしかすると、尼子十勇士がなければ、真田十勇士は生まれなかったかもしれません。

そう考えると、尼子十勇士筆頭・山中鹿之助を語らなければならないなぁと思うのです。

また、新たな物語が動き出しそうです♪♪


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