雨ヶ崎エコの卒業

 雨ヶ崎笑虹の卒業配信が終わった。
 卒業配信というものは初めてだったが、こんなに笑えるものなのだろうか。
 正直、号泣を覚悟していた。それを慰めるためのSTRONG ZERO2本(1L)だった。気づいたら、草を生やし、その2本はなくなっていた。
 そんなほろ酔いの中で文章を書く。1週間、自分の精神的安寧を守るために、笑虹・パレプロから距離を置いて色々文章を考えていた自分が馬鹿らしくなってくる。文章構成とか単語選択とか全部取っ払って書き散らす。これがこの文章だ。そんな夢現な中で書く文章だ。

 7月21日、雨ヶ崎笑虹の卒業を聞いて心に穴が空いた。当夜、感情がなかった。翌日、ただ自身の感情を分析して言語化するのに半日かかった。その後はパレプロ関連を軽くミュートした。一切の情報を遮断して平穏を保とうとした。笑虹ちゃん自身のツイートも一切反応しなかった。リプに対しても絵文字一つで返した。女声自体も排除していた。本当は綺麗なソプラノが大好物なのに、それを心が拒否していた。女性らしい文章もダメだった。もしかしたらそれが彼女を傷つけてしまったかもしれない。

 そもそも、どうしてこんなに感情が失われたのか。それが問題なのだ。
 誰がどう生きようが、本人の勝手で、自分が一喜一憂することなんてお門違いだと思っていた。「当人が選んだことだから」それで解決できるのが、自己決定権・幸福追求権であり、憲法上の権利であって、私がそれでご飯を食べている、専門分野だ。
 それなのに、彼女の卒業の告知にこんなにも感情が揺さぶられた。
 それは自分が、あったかもしれない自身を、仮定法上の自身を、彼女に投影していたからだ。
 幾度の競争を勝ち抜いて、独り象牙の塔に引きこもることになった自分と、芸事に一生懸命に励んで生き残ろうとする彼女とを勝手に重ねていた。自分のようにカビ臭い空間に閉じ込められて欲しくなかった。多くの人に祝福されて欲しかった。

 7月19日のVILLSは、そんな自分の夢を見せてくれた。

 掛け値なしに素晴らしかった。彼女の歌声の成長が、彼女の歌声を喜び応援してくれる人々のいることが、なによりも尊かった。
 集団というものと合わない時もあっただろう。他人と比べ、標準と比べ、辛い時もあっただろう。世間のムードに影響されて沈んだ時もあっただろう。
 それでもそれを乗り越えて、アイドル・雨ヶ崎笑虹を見せつけたこと、それがどうしようもなく喜ばしくて、珍しく家でほろ酔いになるまで飲んだ。
そうして、酩酊した中で、今後の未来も夢想してしまったのだ。そんな未来が来ることを、つい期待してしまったのだ。覚束ない手で、その未来を語ったのだ。
 それは幸せな夢だった。

 7月21日、そんな夢があっけなく崩れた。
 
 それ自体はどうでもいいのだ。夢なんて壊れ・壊されていくものだ。誰だって、自分の・他人の夢を壊しながら日々を生きている。僕だって何人もの夢を押しのけて、いくつもの挫折を足蹴にして今の地位にいる。
 ただその夢があまりにも甘美な夢だったのだ。私はただ、その夢に生きた自分も壊れていくのを感じながら、醒めないでくれと必死に抵抗しているのだ。


 本当は、なんとなくズレを分かっていた。分かっていながら、その可能性から目を背けて、VILLSの彼女を信じようとしたのだ。
 彼女についての記事を書いたのも、少しでもその可能性を回避しようとしたからだった。彼女のことを知ってもらえれば、少しでも興味を持ってもらえれば、軌道が修正できるのではないか。
 ただ、ファンレターも含めて、私の言葉は彼女をどこかで規定してしまったのかもしれない。言葉によって、彼女のモデルを作ってしまったのかもしれない。そして彼女自身もどこかでそのモデルを受け入れて、その齟齬に苦しんだかもしれないし、逆に卒業を後押ししてしまったかもしれない。可能世界を壊したのは、淡い夢を壊したのは、私自身だったのかもしれない。
 その日の夜、私を襲ったのは、卒業の悲しみでもなく、期待を裏切られたことへの怒りでもなく、喪失への抵抗と失われゆく夢への節操のない懺悔だった。

 ただ、彼女がまだ活動を続けるという確信は初めからあった。彼女はSHOWROOMでの新アバター配布のための配信を行うと言っていたし、Tiv先生も「これからの活動を、また楽しく応援する」と言っていた。パレプロという集団からの離脱であって、活動の停止ではない、ということは明確だった。
 彼女の夢は、彼女と見る夢は、まだ続いていた。
 その夢はきっとこれまでのとは違う、また別の夢だろう。それはこれまでの私、勝手に投影していた「私」自身との別れだ。
 私はもう「仮定法上の私」に期待することはしない。世間との「ズレ」を認識し、親からも遺伝的に「人間モデル」ではないとされた、「ハズレ」な「異端」な「私」からの卒業だ。もう、「アタリ」であった可能性にすがったりはしない。
 「ハズレ」は「ハズレ」として、私は好きに生きて死んでいこうと思う。


 だから、彼女も好きに生きればいい。
 どこへなりとも行けばいい。
 誰しもが、誰しもの夢を壊し、誰がしかの夢に壊され生きていくのだ。結果的にどんな人物になろうが、私には関係のないことだ。私は二度と彼女の生き様を評したりしない。


 ただ彼女の歌声だけが残ればいい。


 最後に老婆心を発揮するならば、どんな根無し草でも、泣く場所だけは失くしてはいけない。幾人と笑い合う場所よりも、誰かと泣く場所の方が有り難い。
 この出来事を経てようやく私は、赤の他人となった。「雨ヶ崎笑虹」を応援する側になったのだ。

 「これからも・応援する」とはどういうことなのか。
 残念ながら私はそこまで言葉の力を信じることが出来ない。言葉は平気で人を裏切る。だから口約束には公権力による強制力が必要なのだ。不確かだからこそ、無理矢理実現する力を我々は必要としているのだ。
 言葉は裏切る。
 それでいながら、私は「言葉」というものの力にしかすがることが出来ない。だからこそ、こうやって何度も言葉を綴っているのだ。
 「応援する」とはどういうことなのか。
 彼女がデビューしてから、その言葉に殉じた人がどれだけいるだろうか。私だって他の人と比べたら熱量は低い。ただ、時機に応じて、あり合わせの単語をそれっぽく縫合して、それっぽい体裁を整えているだけだ。

 そんな私からの心からのお願いだ。
 これからも「アイドル・雨ヶ崎笑虹」を応援して欲しい。
 お願だから、せめて彼女の歌声だけは愛して欲しい。
 「365日の紙飛行機」に惹かれた私の心からのお願いだ。結局、パレプロにいる間にそれをまた聞く機会はなかった。それが心残りなんだ。
 どうか、彼女の歌声を愛して欲しい。彼女の歌声に可能性を感じた私に夢を見させて欲しい。
 せめてまた、彼女がその歌をステージで歌うところをこの目で見たい。

 V.V.Vというソロステージで泣いて歌いきれなかった彼女が、卒業なんておくびにも出さずVILLSで歌いきった。私たちに甘美な夢を見せてくれた。「アイドルを夢見た女の子」から「夢を見させるプロフェッショナル」へと変貌を遂げた彼女を、「プロフェッショナル」としてパフォーマンスを保てないと卒業した彼女を、どうか応援してあげて欲しい。
 それが、私の心からの願いだ。

 これからもパレプロは能う限り応援する。
 パレプロさん、ファンの皆様。こんなやんちゃな彼女を一時でも受け入れてくれてありがとう。

 最後に、笑虹さん。
 この1週間、冷たくしてしまってたらごめんなさい。お手紙でも言ったけれど、自分の才能で生きていく世界、他の才能に絶望することもあるかと思います。天才はどこにでもいる。自分の非才さやスタートの遅さを悔やむことだってある。
 ただ、それは逆にチャンスだ。自分の才能を何処で開花させるか。それは直ぐにはわからない。天才かどうかじゃなく、どうやって花開くかが大事だ。
 だから非才な人間は「うるさい。僕を聞け!」と叫び続けるしかない。きっと誰かがその叫びに耳を傾けてくれる。
 だから、どうか自分を信じて歌い続けてください。
 少なくとも、A2P時代よりも多くの人が耳を傾けてくれると思う。
 この7カ月で「プロフェッショナル」としての自覚を得た貴女は確実に成長しています。大舞台で自分を出さずに歌いきったこと、誇りに思って良い。
 また、こうして多くの仲間と出会ったこと。色んな人と出会ったこと。応援する人と出会ったこと。その全てが貴女自身の生きてきた道です。

 ただ、私は「貴女自身が決めたことだから」なんて言えない。
 人は他人の夢を壊しながら今の地位にいる、そんな生き物だから、自己決定だからなんて言いたくない。それは私にとって貴女を諦める言葉だ。
 私は貴女を諦めたくないから、だから敢えて自己決定だなんて言わない。私の甘美な夢を醒ました責任をとって欲しい。
 「貴女を応援して良かった」。これが誕生日プレゼントだと言うなら、それが届くまでずっと待ってる。
 だから貴女も、どんな形であっても歌い続けて欲しい。
 たとえ姿形が変ったとしても、貴女の紙飛行機だけは忘れないと誓うから。
 どうか、歌い続けてください。