「Find out or show off」と“出会った”
1 本稿は何で“ない”か
(1)私の能力との関係
本稿は、常磐カナメさんが作詞し歌った、ファンメイドの「Find out or show off」 を受け取った私が、それにどう突き動かされたかについての覚書きである。
しかし、私は日常的にテクストは扱うが、楽曲に関する知識はなく、曲についてきちんと語る術がない。これが歌曲である以上、曲と歌・詞の一部を取り出して語ることは難しいのではないか。特に、普通の歌ってみたではなく、ファンメイドのオリジナル・書き下ろしとなると、曲を取り出さないのは失礼ではないか。そう思い、躊躇っていた。
ただ、そんな非才な私でも「いいな」と思う部分があった。知識がなく正確に語ることはできずとも、なにがどうして「いい」と思ったのか、それを記すことはできるのではないか。
本稿は歌曲の総合的な感想ではない。テクストをメインとして、それに沿って曲の感想(感想と言っても感覚的なそれであるが)を記していくものでしかない。
(2)私の自己規定との関係
また、これは「みんなとの曲」であるが、私は「みんな」として自己規定することが未だできていない。だからこれは、「みんな」の内部で「語る」ものではなく、他者に「布教」するものでもない。これは「歌曲の意義」や「文脈」を考慮されたものではない。
そんなもの提示していいか。いわゆる「チラ裏」ではないか、と恐れた。
ただ、こうして何らかの感想・アクションをすること、文字を表現手段として選んだ自分にはこれしかできない。その意味でこれは「チラ裏」でしかない。
(3)誤読との関係
そしてこれは、ある意味で二次創作でしかない。
テクストの解釈は常に「誤読」の可能性を含んでいる。「誤読」の発生を減らすために様々な方法論があるだろう。ただ、私には、先の自己規定に関連して、それを防ぐ要素である「常磐カナメの歴史」の知識が欠けている。
だからこそ、ただ「テクスト」のみを頼りに、敢えて「誤読」をしていこうとした。「誤読」をすることで、本曲を私なりに受け止めようとした。
そのため、ここで描かれているものは「私」の「誤読」をおそれない二次創作でしかない。
そんな様々なおそれを抱きながらも本曲を聴いて書きたくなってしまった。そんな私の殴り書きでしかない。
2 「Find out or show off」という「歌曲」~テクスト内から~
(1)「Find out」と「show off」
歌詞はそのタイトル「Find out or show off」に沿って、全体として2つの場面に分かれている。1番は「Find out」、「探し出す」こと、2番は「show off」、「見せる」ことが各々テーマとなっている。
他方で、最初の「暗い夜の空に/星が瞬いている/知らない星たちがどこかで輝いている」、これは以後も繰り返される。これが最初に位置づけられることで、それがメインテーマであり、先の2つがそのサブテーマである、という印象を受ける。つまり、天空に生きる人々の2つの在り方という構図になる。全体としてこの詩(うた)は天空からのメッセージとして受け止められる。
その始まり。音は後と比べると少なく静かで、(これは後にも何度か現れるが)柔らかな音が現れては消え、星が瞬く空がありありと浮かぶ。そこにカナメさん自身の柔らかな声が重なることで、爽やかな神秘性が伴ってくる(女神かな?)。
そうして始まる「探し出す」ということ。それは、不安や恐れから踏み出すことを躊躇う人へ、「星」を探しに行こうと誘い出す。「星を探し出すことは“できる”のだ」と誘う。“できる”……それは「知らない星」が必ずあるからだ。「それだけじゃない」ことが常に保障されている。だからこそ、私たちは「星を探し出すことが“できる”」のである。それがたとえ「どんなものか不特定の=ひとつでさえありうる星(a star)」だとしても、その可能性があるだけで一歩踏み出すことが“できる”。
そのような展望、暗い夜にいながら明るい展望が、サビで一気に眼前に開かれる。この部分、「暗い夜の」で沈み「空に」で一気に飛ばすところがとても心地いい。その後の間奏も星空をイメージさせる。
そして、「輝く」ということ。これは表現を生業の一つとしている私としては耳の痛いメッセージだった。自分が頑張っても、そして成果を出しても、それを見止めて(=認めて)くれる存在がなければならない。そしてその「存在」は「誰か」であって、「人」でなければならない。神頼みではいけないのだ。見止めてもらうためには、ただ待っているだけではダメなのだ。それを「見せる(show off)」必要がある。「輝く(twinkle)」という自動を超えて、「見せる」という能動を伴わなければならない。
この場面、「(ひとりになって頑張ってるだけじゃ)誰も知らない見つけてくれない」というところ、音も声も籠もり閉鎖的で、私などはそのような状況に恐怖を感じるのだ。それまで「探し出すのだ」と後押ししてくれた「声」が、反転して自身の在り方を否定してくる。だからこそ「見せる」ことに説得力が乗っかってくる。良い演出だと思った。
ただ、この「声」もやみくもに「見せろ」というのではない。「ちょっぴり(a little bit)」でいい、と言うのだ。その優しさが、どこか同類に向けたような声が、その「ちょっぴり」の勇気を与えてくれる。たとえ自信がなく「ちっぽけ(a little bit)」な輝きであろうと、きっとその「声」は「綺麗」だと言ってくれる。星々の明るさを持ち出さず「綺麗だ」としか言わない歌詞に、そんな期待をしてしまうのだ。
(2)星々の出会いと星空
こうしてサブテーマで語られた星々は、夜空に瞬く「星」としてメインテーマに統合される。そのような「星」はいずれのサブテーマでも「知らない(知られない)」ものの象徴として記述されている。それは可能性である。「星」は常に可能性を持っている。そのような可能性があると信じられるから、私は「探し出す」ために一歩踏み出すことができる。そのような可能性を「星」たる自身に見出すからこそ、私は他人に「見せる」ことができる。
そして、探し出すことは見止めることであり、見止められることは探し出されることだとすれば、それはまさしく「出会い」である。「出会い」において2つのサブテーマが結合し、メインテーマへとつながっていく。
可能性たる「星」の「出会い」を保障するもの、それが「暗い夜の空」である。まだ見えない「星」も含めた全体である「暗い夜の空」だからこそ、そしてその暗がりは尽きることがないからこそ、「星」の可能性は尽きることがなく、だからこそ、「星」を探し出しに行くことができるし、「星」を輝かせる余地が必ず残されている。
「星」が瞬く「暗い夜の空」は未知の「出会い」を含んでおり、瞬く「星」の数だけ「出会い」があった。それは「出会い」に満ち満ち、「出会い」によって構成されている。
それは、とても眩しい展望のように、私には思われるのだ。
3 本稿は何で“ある”か
概要欄を見て目を引いたのが、「作詞 中学生の頃の常磐カナメ」という記載である。テクストは作成された瞬間から解釈に開かれる。同じテクストであっても、異なる解釈は許容される。「人によって違う」こともあるし、「時によって違う」ということもありうる。
果たして「中学生の頃の常磐カナメ」と「高校生の頃の常磐カナメ」とで、この歌詞の解釈は同じなのだろうか。その記載をみて真っ先に思い浮かんだのはそのことだった。
ただ、「中学生の頃の常磐カナメ」がそのテクストにどのような思いを込めたのか、同じテクストを「高校生の頃の常磐カナメ」がどのように解釈したのか、それらは知らないままでいい。私は私なりにこのテクストを受け止めることができればそれで十分だ。本稿はそういう「チラ裏」だ。
本稿は、「語り部」たらんとするものでもなく、「布教者」たらんとするものでもなく、ただ「異邦人」からの眺めを記したものである。それは、「常磐カナメのテクスト」から「楽曲の世界」から、そして「みんな」からも「異邦」である、そんな自分が記したものである。
「異邦」ということに躊躇い恐れながらも、ちょっぴり見栄を張って見せた。そんなテクストである。
最後に。
常磐カナメさん、誕生日、おめでとうございます。
貴方の今後の進む先が、キラキラと輝く場所であり続けますよう、心から祈っております。