山岡重行聖徳大学講師の拙稿への「批判」と統計学理解の問題及び研究教育倫理の重篤な問題について(補遺②)ーー本連載の含意

山岡重行聖徳大学講師の拙稿への度を逸した非難については、ここまでごく技術的な事柄に即して論じてきた。私のこの連載でのひとまずの目標は、①拙論を「いんちき」「捏造」「疑似科学」…などと痛罵する山岡氏の議論に対する反論と、②そもそも山岡氏が前提としている統計理解、わけても推測統計についての理解―分析を進めるうえではcriticalな問題である―を分節することであった。研究倫理については、最小限の言及に留めた。

先述の通りこの間、私の反論にまともに応答してくれたのはUNCORRELATED氏のみであった。http://www.anlyznews.com/2019/07/blog-post_6.html、http://www.anlyznews.com/2019/07/blog-post_13.html、http://www.anlyznews.com/2019/07/2.html://www.anlyznews.com/2019/07/2.htmlで読むことができる。妙な揶揄などをいれずに、精緻な形で私の議論を検討していただいたUNCORRELATED氏の学問的誠実さに心より感謝したい。

論点は多岐に及ぶが、しかし、UNCORRELATED氏と私とでは焦点が異なっているように思う(むろんそれは氏の批判が的外れである、ということを意味しない。むしろ大変に勉強になった)。

私の連載の趣意は、UNCORRELATED氏自身も指摘されているように「[山岡氏が]有意確率(probability value; P-value)と有意水準(significance level; α)を混同している」こと、「具体的には、「統計的に意味がない誤差を意味がある有意差と見なす過ちが存在する…「差がない」という帰無仮説が正しいのに、それを否定して「差がある」と主張してしまう過ちである。この過ちを統計学では第1種の過誤と呼ぶ…第1種の過誤を犯す確率を危険率と呼ぶ。これは有意水準と同じもので、本書のあちこちに登場する「P」がこの危険率=有意水準」(p.172)である。」」といった記載に表れているような、p値の統計的理解、また推測統計における統計量の扱いの問題性であった。また(大数の法則の理解も含め)氏の回収率100%に近い学生調査が、氏が行う形での有意性検定に即するものなのかどうか、を検討することであった。ようするになんらかのランダム化の工夫がないところで、山岡氏が推測統計的な有意性検定に拘り、しかもそれを「事実」認定の根拠とし、質問票も明らかにしないまま、そしてデータ照会もしないまま、他者の差し出した分析を「捏造」「疑似科学」と言い放つことの問題性を広く読者層に認識してもらうことであった。私の自尊心が、というよりは、記述統計に徹するべきところ(そこでも十分な分析はできる)、少なくとも予備調査として行うべきデータ収集方法・分析手法を推計統計の方法で多用することは決して好ましいことではない。UNCORRELATED氏がいうように、「有意抽出の場合は恣意性を排除できないので、体験談や地域伝承を集めるタイプの研究に近いと考えるべきだと思いますhttps://togetter.com/li/1332102#c6152911」という厳しい捉え方もできる。ただ本連載では、そこまで厳しい規準をとらず、可能な限り山岡氏のサンプリングについては「単純無作為である」との千歩譲った前提で話を進めてきた。逆にいうと、UNCORRELATED氏の規準でいけば、山岡氏のデータは「体験談や地域伝承」を集めるタイプの研究になっているということであり、それはそれで大切だが、言えることにおのずと限界は出てくるであろう。その限界に対して、山岡氏が無自覚なのではないか、というのが本連載のライトモチーフである。

UNCORRELATED氏と私とのやり取りは、そうした「棚上げ」のうえでなされている分析の妥当性をめぐる議論であることに、読者はくれぐれも注意していただきたい(氏はまた異なる見解をお持ちかもしれないが)。山岡氏の重回帰分析の理解など(よくある誤解なのだがこちらは致命的な誤解である)についても相当に疑念を持っており、例のトートロジー問題と深くかかわってくるものであるが、それは照会書にて精査した。後日なんらかの形で公開したいと思う。

そしてまた、山岡氏の度を逸した言動については、ここでは問わない。彼のデータ保存についての照会もここでは行わない。しばらく照会書のほうに専念したいので、いましばらくお待ちいただけると幸いです。

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