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「島根、あや庵にて①」(渡辺あや)~【連載/逆光の乱反射 vol.31】

『逆光の乱反射』は映画『逆光』の配給活動が巻き起こす波紋をレポートする、ドキュメント連載企画です。広島在住のライター・小説家の清水浩司が不定期に書いていきます。
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車で広島から島根に向かう。

ハンドルを握っていると「山陽」「山陰」という言葉がナルホドと いう納得と共に身体に入ってくる。それは広島が「陽」で島根が「 陰」という意味ではない。とにかく目に入るのが山また山。2つの 地域を隔てるのが中国山地と呼ばれる「山」であることを実感する のである。

脚本家・渡辺あやの仕事場はそんな深い山の中にあった。自宅から少し離れた場所にある別荘を、今は仕事場として使っているという。

以前からこういう場所を持ちたいと思ってて。主人の父が頼まれて買った別荘がほったらかしになってたので、8年前に勝手にリノベーションしてお客さんをお迎えする場所にしたんです

渡辺は大きなガラスが入った壁を背に座るので、必然的にこちらからは向かいの山々が見える。なんの人工物もない山また山。幾重にも重なる緑また緑。つまりなんもない(そしてすべてがある)ただの大自然。なるほど、これは都会からこの「駆け込み寺」に来た人にとって、さっそくの目の保養になるはずだ。

部屋の中にはミサ曲のようなオルガンが流れている。渡辺はお茶を入れて、楽しくて仕方ないように話しだす。

さて、私はどうして広島から、脚本家が普段暮らすこの生活圏にやって来たのか?

私は渡辺あやと一対一で話したいと思っていたのだ。

興味深いことに『逆光』という作品はいろんなテーマを内包していて、その中のひとつに「東京vs地方」というものがある。文化も経済も東京至上主義で、地方は常に東京の後追い、シャワー効果で東京のおさがりを待つばかり、といった構図である。

『逆光』はそれに反旗を翻し、尾道で撮った映画を一番最初に当地で上映、そこからまるで地方巡業のように地元の人と膝を詰めながら各地で興行を打っていくというやり方を採用した。まずは東京で大々的に公開して、あとは順次地方公開というステップダウンな流れを、「逆から行くんだ!」を合言葉にひっくり返してみたのである。

ということで彼らは広島・尾道を皮切りに、東京、京都・大阪、そして福岡と日本全国をぐるぐる回って、各都市ならではの花火を打ち上げているのだが、個人的にその日本地図の上に「島根」を置いてみたいと思っていた。

島根は『逆光』の脚本を執筆した渡辺あやが20年以上暮らす土地である。彼女はここで暮らしながら『カーネーション』を書き、『今ここにある危機とぼくの好感度について』を書いた。『ワンダーウォール』を書き、『逆光』を書いた。

ある意味、過疎のフロントランナーであり、僻地のセンターフォワードと呼べる島根に暮らし、そこから日本を、東京を眺めるということ。その視点が渡辺の作品に大きな影響を与えているような気がしたのである。

実際、東京などから打ち合わせと称して多くのプロデューサーや映像関係者が「あや庵」(←勝手に命名)を訪れていると聞く。簡素な茶室で自己と向き合うように、さまざまな人がこの「何もない」最果ての地に足を運び、都会でこびりついた埃を払い、自分の真意について渡辺に相談する。そうした業界人がすなる「あや詣」(←勝手に命名)といふものを、我もまたしてみたいと思ったのである。

ということで訪れた念願の「あや庵」。こちらも飾らない、素直な心で話してみたいと考えた。

清水 おひさしぶりです。しっかりお話するのは去年の広島公開の総括編以来ですかね。今日はあれからあやさんが『逆光』に何を感じていたのか聞きたくて。まず東京での公開活動の様子をどう見てました?

渡辺 私は東京のことはよくわからないし、いよいよ彼らのホームである街で、彼ら自身の力を試す機会だなと思っていました。なので私は常に一歩引いたところで報告だけ受けてたんですけど、かわいそうだなと思ったのは、東京は大人の人たちに余裕がなくて誰も助けてくれなかったことで。

清水 そういえば東京では『逆光』に絡んでくる大人がいなかったですね。広島や京都では、地元でお店をやってる人や物好きなオジサンが自然と寄ってきたのに(笑)、そういう名前は聞かなかったかも。

渡辺 東京ってやっぱり人と関係を結ぶときに、なかなか立場や肩書を越えることができないみたいなんです。それは人が冷たいとかいうよりシステム的な話で、仮に誰かに応援してくれる気持ちがあっても、その人に裁量や決定権がなかったりする。そしてとにかく数字しか信じてはいけないという強迫観念みたいなものが濃霧のように視界を遮ってる(笑)。数字以外の成果をカウントするのは敗者の理屈であると街全体が思い込んでいるところがあって、そりゃあ若者たちが打ちのめされたのも無理ないと思います。自分がやってることの意味を見失いそうになる中で、確信を持ってやり続けるのは難しかっただろうなと。

清水 僕は10年前まで東京に住んでたんですけど、何なんでしょうね、その感覚。みんな忙しすぎるのか、稼ぐことに必死なのか。確かに自分も東京に住んでた当時は、周りを見る余裕なんてなかったような気がします。逆に今は広島でヒマだから『逆光』に乗っかれたのかも(笑)。

渡辺 東京のおじさんにこの話をすると、「この10年で文化の面白さより経済活動が大事という風潮がますます進んできたよね」って言われてました。街の再開発とか見てても本来のその街の個性とか面白さをどんどん殺してる感じがして、見ててしんどくなりますね。

清水 僕、ときどき東京に行くんですけど、最近丸の内のビル群が怖いんです。どんどん高層化して、どんどんシステマティックになっていって。三十何階にオフィスがあって、こっちのビルの四十何階で打ち合わせ――って正直、自分のキャパシティを超えちゃってるというか。住んでるときは普通にやってたのに……自分がイナカモノになったのか、それとも高度洗練化した都市機能に付いていけなくなったのか……。

渡辺 丸の内とか誰のための街なんだろうと思いません? 高層ビルってすごくかっこいいけど、実は背景として人を魅力的に見せないんですよね。なんか歩いてると尊厳を奪われてる感じがしてくる(笑)。

清水 体温や人柄のある「人」って扱いではないですよね。整然としたグリッドの中を移動する精密なピースというか。

渡辺 だから蓮くんたちの気持ちもわかるんです。私も日々田舎で「こういうことが大事だ」と確認しながら暮らしていても、たまに東京に行くとグラつくんです。いろんな人の考え方が入ってきて揺さぶられるので、彼らがそうなってしまうのも無理からぬことだなぁ……と。

清水 あやさんでも揺さぶられるんですか?

渡辺 人体で考えると、東京が日本における「脳」だと思うんです。脳がお金のことばかり考えてヒートアップして、末端はめっちゃ冷えてるというのが現代日本の辛さなのかもなあ、と。そういう国の状態と、日本人が今、自己肯定感を持ちにくいということってすごくリンクするような気がしています。

日本の末端の山中で日本の今を考える。アラフィフ同士のオトナトークは、まずは「東京と地方」の話からスタートした。 (まーだまだ続く)

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