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五輪の後の祭り

 93年生まれの自分にとって、記憶に残る最初のオリンピックは2000年のシドニー大会である。開会式に先立ってキャンベラ・ブルーススタジアムで行われたサッカー・日本対南アフリカの試合が、自分にとってサッカーへの情熱が芽生えるきっかけとなったことを鮮明に覚えている。サッカーだけではない。柔道、水泳、陸上、体操…  初めて多くのスポーツを認知し、細かなルールがわからないながらも、テレビの前でそこに渦巻く熱気に虜になっていた。

 2021年8月8日、東京五輪が閉幕した。終わった翌日はなぜか虚無感に苛まれた。観戦しながら感じたことを文章にまとめておきたいと思ったのに、3週間たったのにまだ咀嚼しきれていない。

 東京での五輪開催が決まった2013年、私は就活を間近に控えた大学3年生だった。7年後、自分が何をしているかなど全く想像もつかぬ中、幼き日の自分を夢中にしたオリンピックが、自分の国で開催されることを純粋に喜んだ。オリンピックは単純に見て熱狂するものだった。前回のリオオリンピックまでは。

 今回は違った。大学の同窓生が選手宣誓をしている。小学生の時、土ぼこりのグラウンドで試合をした対戦相手が、エースとして背番号10を背負っている。自分と同じ世代の選手たち、ましてや自分が過去にすれ違っていた人達が、生涯一度きりであろう自国開催のオリンピックを戦っている。近しい場所にいながら、自分にはなぞり得なかった道を歩んだ末にその舞台にたどり着いたことを思った。メダルの数をカウントすることより、勝ち負けに関わらず、大舞台を戦い終えた選手の、整理のつかない中で絞り出される本当の言葉に気を取られていた(そして負けた選手の言葉ばかりが特に心に残った)。

 自分と近い世代のアスリート達が戦いに挑む中、私はそれを画面越しに見ていた。スポーツ選手になりたいと思っていたのは中学生になるくらいまでであったから、自分がその場に立つことが叶わないのは仕方がない。それでもほんの十数㎞の距離で行われているはずの大会に、そして自分の同世代が躍動している大会に、自分が1㎜も携わることができなかったことに虚しさと悔しさを覚えていた。

 8年前、開催が決定したときには未来の自分を描けてはいなかったが、うすぼんやりと“オリンピックに参加したい”という希望を抱いていたのは確かだ。はじめのうちその希望は観戦を目的としたものであったが、やがてより異なる形で携わることを願うようになった。オリンピックというのは64年大会もそうであったように社会の大きな転換点となりうる契機であり、大学を卒業し世に出たはいいが、想定外に苦労するばかりで一向に何者にも慣れない自分自身にとっても千載一隅のチャンスだと思ったのだ。

 自分がかすかな野望を抱えている間に時は移ろい、世の中は変わった。新型コロナウイルスの猛威でオリンピックは1年延期になり、そして自分は目の前の日常に忙殺され、時に忙殺されるふりをし、特に何も変わらぬまま21年の夏を迎えた。

 結局私はこのオリンピックを、テレビの前で眺めることしか出来なかった。選手だけでなく、仕事を通じてオリンピックに関わる人々を横目に見ながら、自身は普段と変わらぬ毎日を過ごしていた。コロナにより観客はほぼゼロとなり、そもそも開催することにすら懐疑的な意見も当然多く、そんな状況に流されるように自分自身、オリンピックという大きな契機を漫然と迎えてしまった。五輪の最中、いろいろな競技を見て様々な感情が去来する中で、ふとそのようなことを感じた。

 パラリンピックも残り1週間となり、いよいよTokyo2020のエンドロールが近づいている。今回の五輪、眺めるだけではあったが、その中で芽生えた感情が自分にとって大切なものであると思うし、財産として未来に繋げるための第一歩とすべきものだと感じている。何も出来なかった侘しさも後の祭りだが、サッカー・吉田麻也の言葉通り、「それでも人生は続く」のだから。

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