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刺青の歴史的背景と目的が作り出す現代のポジション

※本記事は2015年にノリで書いた文章のため、当時と異なる点や荒い点があるかもしれませんが、そこは目を瞑ってください。

はじめに

 私が刺青について調べようと考えたきっかけは、2015年6月に公開された映画『マッドマックス 怒りのデス・ロード』(原題:Mad Max: Fury Road)に登場するキャラクター「ニュークス」に惹かれたことだ。病に冒され若くして死が目前にある彼の胸には彼が信仰するV8エンジンが彫られている(厳密には彫られてはいないが)。更には肩にある二つの腫瘍に顔を描き名前まで付けている。ボロボロの身体に鞭打つような行為を行っていたのはニュークスのみならず、同じように病に冒されながらも戦士として戦う若者たちも各々身体加工を施していた。一方で主人公である「マックス」は冒頭で彼らに捕縛され、背中に無理やり血液型等の情報を彫り込まれてしまう。そして病気の戦士たちに輸血するための輸血袋として扱われることになる。自ら身体に刺青を施し己を鼓舞する戦士たちがいる一方で、自らの意に反して消えることのない文字を彫られる者がいたことは、これまで私の頭の片隅にあったイレズミという存在を一気に思い起こさせた。

 イレズミを考えたとき、私が最初に思い浮かべたのは銭湯にある注意書きだった。現在多くの温泉や銭湯、プール等で「刺青・タトゥーのある方は、プール・温泉の利用及び入場をお断りします。」といったような文言が掲げられている。今日の常識から見れば過去の遺習ともみられかねない刺青が、現代にあってなお物議の対象になるのはなんなのか。以前あるポスターをめぐって「腕の文字は入れ墨に見える。生理的に不快だ」「不愉快なものは見たくない」という街の声が出された(平成5年9月25日、朝日新聞)。それだけではなく、スーパー銭湯などに行けば「入れ墨お断り」と赤文字で大書された看板が立っている。銭湯によっては、ロッカーの数だけこのステッカーを貼っているところもある。ふつうの人(刺青を入れていない、入れた人が身近にいない人)は、刺青を入れた人がさぞかし肩身のせまい思いをしているのではないか。あるいは他人がやる分には構わない、という今風の考えをもっているかもしれない。ところが、そうした見解に逆らうかのように、じっさいに刺青をする人の数は近年増加の傾向にあるし、男だけの占有物でもなくなっている。見方によっては死ぬまで時効のない刺青が、簡単簡便をよしとする現代になぜ受け入れられているのか。刺青についてわれわれが知っていることはあまりに少ない。にも関わらずなんとなく不快だからという理由で非難される。それは刺青に対する非難の声だけでなく、刺青を入れている人間の人格を否定するような声までよく挙げられる。
そんな否定的意見が多く、実際に社会的制約が多い刺青をあえて選ぶ人は一体何を考えているのだろうか。そして刺青を不快と感じる人間が多いのは何故なのだろうか。

第1章・刺青、タトゥーの原理

本題に入る前に、多少入り組んでおり、誤解も多いので用語の説明を先にしておく。「入墨」と漢字で書く場合、江戸時代に刑罰で行われたものを指す。ここでは、「タトゥー」を1990年代に日本人にも彫られるようになった欧米由来の図柄を彫る行為を指すもの、「刺青」は日本で江戸時代から彫られてきたものを指す。さらに特定の彫りを示さず彫物の総称をここでは「イレズミ」とカタカナで表記する。刺青は明治時代に登場した比較的新しい言葉である。近年のタトゥーの普及に伴い、前者は「洋彫り」、後者は「和彫り」と日本では呼び分けられている。谷崎潤一郎23歳のデビュー作明治42年『刺青』が今日まで読みつがれてきたのは、一読して忘れることの出来ない鮮烈な刺青世界を垣間見せたからだと言える。そしてそれが現在の刺青のイメージの多くの部分を創り上げている。この時、谷崎が表題とした「刺青」の二文字が今では市民権を得るにまで至っている。「いれずみ」を表す言葉が、彫物でも文身でもなく、あの入墨であった時代に、この明治の新造語「刺青」をここまで立ち上がらせたのがこの小説だ。

 日本の刺青が、遠目に引き立つことを約束ごとのようにまとめられているとすれば、タトゥーは近くで見た見栄えを重視する。また、刺青が「ぼかし」のつくる繊細で微妙な墨の色合いを競うとすれば、タトゥーはシェーディングと呼ぶ「陰」の描写に力を入れる。いま、墨でなくインクを用い、オリジナルなデザインを心情とするタトゥーが広がりをみせている。施術を目的に海外へ出たり、マンションで施術していた時代を考えれば、看板を挙げる今の状況はまさに様変わりとしかいいようのない変化としてうつる。タトゥースタジオ、タトゥーショップの登場は、日本のタトゥーが新しい段階に入った証であることはもちろんなのだが、同時にそれはこの国の若者が自分と自分の身体を見直す時代の動きとどこかで連動しているようにも思われる。

 和彫りと洋彫り、手彫りとマシンといっても針で刺して作ることには変わりない。針を突いた場所に穴が開き、こじあけたその刹那に針を伝わって色素が入り込み、その点を繋げて線を描いている。刺青の原理は色素を含んだ液をどうやって膚の一定の深さまで届けるかである。点が繋がって細い線や太い線、広い面をつくっている。彫師は膚の反応や方向をその経験から読み針を刺してゆく。しかし、吉岡郁夫の『身体の文化人類学』に「生体内に異物が入ると、生体はそれを外へ排出しようとする。ところが、墨の粒子は異物としての扱いを受けず、皮膚の組織になじんで長くとどまっている。なぜそうなるのか、そのメカニズムはまだ明らかにされていない。」とあるように、実のところメカニズムは専門家でもわからない。刺青をして間もない皮膚の組織を光学顕微鏡で見ると、真皮の上層にのみ墨の粒子が検出され、時が経つに連れ、粒子は毛細血管に沿ってしだいに深層へ移行し、ときには皮下組織にも認められることがある。このように墨の粒子はある程度勝手に膚の深くまで入り込むため、彫師によって差はあるが大抵は施術時に血が垂れるほど深く針を入れない。正確には傷をつけずに入れることに腐心している。その理由は出血の有無よりも傷の治りの問題に関係してくるからだ。はっきりしていることは、皮膚の真皮の部分およそ2mmほどの場所に墨が蓄えられるということだ。

 刺青には関東と関西でハッキリとした違いが現れる。違いの最もよく出る場所は胸のひかえだ。ひかえは胸のどこまで彫るかという意味で、深い浅いと言う。乳首にかかるほど深く、大きな面積に入れるのは関西。対して関東は深く入れず乳首から遠いところですませている。その彫師がどこで修行してきたか、どんな刺青を良しとするかで差がつくという。また、主題となる絵の大きさによっても見分けがつく。刺青の入っているところと地肌の境いっぱいまで絵を入れるのが関東彫りで、中の絵が大きくなる分あざやかさが際立つ。関西彫りはその逆で絵が小さい。故に絵の背後をうけもつ額の占める比率が大きくなり落ち着いた風合いのものになる。


第2章・刺青の歴史

 そもそも、日本において刺青をしてきた人々の伝統的価値観では隠すものであった。日本の歴史上、旧石器時代から奈良時代に入るまでの1万数千年にわたって身体変工を習慣的かつ通過儀礼的にしていたと考えられている。土偶や埴輪の文様から類推すると、古代の日本人は身体の各所に抽象的な文様を彫り入れたか描いた可能性がある。ところが17世紀以降の刺青は誰もが関係する通過儀礼的なものではなかった。17世紀後半以降の刺青は、火消しや飛脚など、裸になる機会の多い職業の人びとに好まれる身体装飾にとどまった。刺青をした人々は、つねに強い拒絶反応を示す多数派と対峙することになったのである。 墨刑は江戸時代犯罪者であることの目印として使われた入墨である。土地によって形は異なるが、どこも左腕の肘近くに筋を通していた。拒絶反応は1720年から江戸時代が終わるまで、犯罪者の顔や腕などに入墨が彫られたことに加え、「身体髪膚(しんたいはっぷ)、之を父母に受く。敢えて毀傷(きしょう)せざるは、孝の始めなり」と説く儒教の浸透が一因となった。また、奇想に富んだデザインは、彫る人にとっては身守りや威嚇の意味があったがゆえにバッドテイストに満ち溢れていたことも強い憧れとともに拒絶反応を生んだ。

 明治新政府になって刺青への対応として最も大きな変化は、享保5年(1720年)から行われてきた入墨による黥刑が明治3年(1870年)に廃止されたことである。もちろん黥刑だけが入墨ではない。市井で流行る入墨についてはたびたび禁令が出されている。文化8年(1811年)にも禁令が出されたが、実際どれほどの抑止力になったかはわからない。それでも職人・人夫たちのかなりの部分が彫物をしていたことは疑いない。江戸から明治に代わるそのつなぎ目に大きな亀裂がみえるのは、そこで生活の根に関わる部分が大きくいじられたからである。刺青は江戸においても明治新政府においても同様に禁じられたが、その背景は全く異なる。明治には欧米というモデル、目標があり、外国からどう見られるかという意識が強くはたらいた。そこでは刺青は認めることのできない「悪」と映った。明治2年に出された議案の内容は、「両親からもらった大事な身体であることもわからずに刺青することはなげかわしいことであり、同時に外国人に対して、はなはだ恥ずかしいことだ。元から断たなければ悪風がなくならないので、これを職とする彫師を取り締まる法を定めよう。」という内容の訴えだった。しかし、何をもって悪とするか、何を恥ずべきことかという基準は固定したものではない。要はその時どきのふつうから外れれば異端にあたる。ここで注目されるのは、主張の根にあるのは、外国人からどう見られるかという見られる側の体裁と対面による部分が大きいことである。

 さらに刺青を取り締まる条例としては明治5年11月8日に出された「違式註違条例(いしきちゅういじょうれい)」がある。以後この条例を踏襲するかたちで、結果的には昭和23年5月2日まで、76年間の長期にわたって刺青が取り締まりの対象とされることになっていくことになる。これ以前に条例が無かったというわけではないが、具体的な罰則が定められていなかった。いわば訓示に近い規定にとどまっていたことからすれば、違式以降はまさに桁違いの変化であった。以来、そうした状況は昭和23年(1948年)5月まで変わることはなかった。つまり彫物は、文化8年から数えれば実に137年間にわたって禁じられた身体行為ということになる。

 しかし皮肉なことにこの137年という期間が後に日本の刺青として知られる刺青の形成期と重なることになる。時の政府から禁止されたことで、衰退するどころか逆に成長の方向に作用していくことは、まさに歴史の悪戯としかいいようがない。実際に刺青を彫るのは、同時代の人口からするとほんの僅かな極小数でしかなかった。にもかかわらずその影響は決して小さくはなかった。それどころか刺青に対する一般の関心の程度は、刺青を彫った人と同じか、あるいはそれを超える関心が世間の側にもうかがわれる。この社会的な側面が強調されるところに刺青というものの特徴があるといえる。


第3章・なぜ彫るのか 

 一般的に否定的な目で見られる「彫る」という行動に人間をかりたてるのは何だろうか。それはイレズミそのものに対する好奇心と、刺青を入れた人間への好奇心であるだろう。実際に、彫るところにまでは至らないが、こうして私自身も入れた人間への好奇心でこうして調べている。そしてその強さの度合が人を変える原動力になる。好奇心のなかには見ることの好奇心と痛みへの好奇心が存在し、痛みそれ自体を考えようとするとき、図柄の持つ意味はほとんどなくなる。重要なのは入っているかどうかの一点だ。

 日本でタトゥーや刺青を彫ってもらう人々は図柄そのものには必ずしも関心がない。どのような図柄を彫るというよりも、「彫る」こと、痛み自体を渇望している。図柄に関する知識は彫師側にあり、客側がもつことは少ない。年齢が若ければ若いほどいろいろ調べたり、自らデザインして彫る図柄にこだわりを見せる。しかし、年配の客は図柄に対するこだわりはほとんどなく、見本帳でより格好良く威勢よく見えるものを選ぶ程度である。図像文化や映像文化と縁が薄い客も多いので、自らが求める図柄をうまく表現できないためである。

 刺青を入れる人にとって文様や色は存在を知らせるための手段でしかない。目的は痛みを取り込むことで、自分を変えたいという欲望にある。刺青はあらかじめ予想される痛みを取りにいくところに人をかきたてるものがあり、痛みを通過した証として自分にも見えるということに小さくない意味がある。その時の痛みを形に変えて担保してくれるのが刺青である。痛みを共感、共有する人を得たとき、刺青はただのファッションではなくなり、受け手あっての身体表現である場合が少なくない。なぜその痛みとして刺青が選ばれるのか、理由は三つ。一つ目はインターネットによる情報の共有化。二つ目は海外渡航の増加、1970年の66万人に対し、2000年には27倍の1782万人になっている。三つ目は単身世帯の増加、家族の目からの開放という側面。こうした要因が考えられる。

 ひとつ注意したいのは、整形手術や補正手術といった外科的加工が文身など(つまり民族的に古くからある加工法)と決定的に異なるのは、それが形跡を残すことに執心しており、あたかも以前からずっとそうであったかのように振る舞われる点である。身体に後天的に施す人工的なイレギュラーという点では同じだが、整形や痩身、補正その他は、いわばネガティブにつくり出される異和とも言える。対してピアッシングやタトゥーの場合はもとの状態が一目瞭然である。生まれつきの身体に金属の輪が貫通していたり、トライバル模様や龍が皮膚に描かれている人間が存在しないことは明白だ。タトゥーは加工前と加工後が日の目を見るより明らか。こちらはいわばポジティヴにつくられる異和と言える。

 デヴィッド・B・モリスは著書『痛みの文化史』(紀伊國屋書店、1998年)において次のようにいっている。「痛みは神経線維や神経伝達物質についての単なる生体医学上の問題、つまり既知の概念に固定された事柄ではなく、(中略)さまざまな文化が、死に対するのと同じように、神話・祭式・浄化の儀式をつうじて、つまり共有する考えかたによって、人間化し自分のものにしてゆく方法を学んできた、恐るべき存在なのである。」つまり先にも述べたようにイレズミは痛みを通過した者が共感、共有する人を得ることが可能で、そのときイレズミはファッションではなくなっている。痛みを取りにいくイレズミは彫る人間(彫師)と彫られる人間だけの行為ではなく、それをわかちあうことのできるパートナー=受け手あっての身体表現なのだ。

 現代の刺青は、祭りにも似た自己再生のための業、自らを認めるための手段とみなすこともできる。これまで刺青は常に世間とのからみが注目され社会的な存在としての当否ばかりが問われてきた。しかし刺青はひとまず個人の中に生起する欲求であり、民俗社会にあっては集団の儀礼である。


第4章・グローバルなイレズミ

日本を含め世界中の若者を中心に流行しているアメリカンタトゥーだが、日本の刺青と比べると現行の欧米のタトゥーの歴史は浅い。もともと北米の先住民族の中にはイレズミの習慣のある民族集団もいたが、最初にアメリカに到着したヨーロッパ大陸の移民はイレズミを知らない人々だった。欧米の人々がタトゥーをするようになったのは、船乗りが太平洋ポリネシアの島々を訪れたことが一つのキッカケだ。船乗りたちはイレズミの習慣がある島を訪れては謝礼を渡してイレズミを入れてもらっていた。19世紀になるとアメリカやヨーロッパの港周辺からタトゥーを入れる店が現れた。社会的にイメージされる愛好家は、軍人や船乗り、バイク野郎など所得も低く、教育程度も高くない層の人々が多かった。彼らに好まれたのは19世紀末からの定型化した図柄だった。やがて身体像は社会による一丸となったセーフティボディの希求からさらにはコントロールボディへ、そして個々人のボディデザインへと細分化していったため、1960年代には定型化した図柄のタトゥーは時代遅れのファッションとしてみられていた。また、州によっては州法でタトゥーを入れる店の営業が禁じられたり、独自の衛生基準が設けられたりしていた。時代遅れのファッションであったタトゥーだが、1960年代に作家性の強い彫師が登場してから徐々に「格好良くおしゃれなタトゥー」が形成されていった。そして欧米の彫師たちはストーリー性のある図柄を身体全体に配する日本の和彫りや、黒一色で事物を抽象的に表現する先住民族のイレズミの要素を積極的に取り入れるようになった。こうしてよみがえったタトゥーが現在日本でも見られるいわゆるタトゥーであり、実は欧米由来と言われるタトゥーは日本の刺青要素も取り入れられて出来上がったものだったのだ。80年台以降にタトゥー専門誌が続々と創刊されたことや90年代のインターネットの発達により、各地のイレズミ文化が彫り方と図案の面で混成していった。そして各地域のイレズミ文化を積極的に取り込んだタトゥーが、今度は日本をはじめまた各地に還流していった。欧米のタトゥーがデザインの源泉であるさまざまな文化のイレズミに影響を与えるようになる。そしてそれを促している原因の一つが今や世界各地で行われているタトゥーコンベンションである。現在、さまざまな文化要素を吸収した結果、変化しつつあるタトゥーは、服やアクセサリーなどのファッションにも大きな影響を与えている。以前より先住民族の文様を描いたTシャツなどは流行していたが、アメリカンタトゥーと先住民族の文様を組み合わせたデザインが見受けられるのがファッションの最近の傾向である。ファッションシーンへの浸透からみれば、タトゥーを彫っているか彫っていないかという区別はすでに意味がなくなりつつあるとも言える。

 エステのなかにいわゆるアートメイクが登場してくるのは1980年代の後半で、当時はアートメイキング、アートマージュの名で喧伝され、宣伝本まで出ていた。そこではアートメイキングがイレズミではなく化粧であること。そしてメイクではあるが洗っても消えないという売りがあり、ともかく定着した。それがいっときの流行に終わらなかったのは、宣伝効果というよりは、これを受け入れる側の利便と意識の変化にあった。そして今は当時の比ではなく、時間とお金をかけて自分を演出する方向に拍車がかかっている。タトゥーに興味を持ちつつもタトゥーショップにはまだ遠い人に対して、希望があればいつものエステティシャンによってタトゥーを入れることができるようにまで進化した。

第5章・刺青と関わる人々の世界

 現代日本社会で、愛好者や関心をもつ者同士で心おきなくタトゥーを見せあい、語り合い、交流できる機会は、現在のところタトゥーコンベンションぐらいしかない。タトゥーコンベンションは、彫師と客、そしてタトゥーに興味のある人々がライブハウス、ホテル、イベント会場などに集い、彫師がブースを設けて自らが描いた下絵や作品の写真などの資料を展示し、客や関心のある人に情報を提供する。かつては日本でも幕末から明治に入るころに似たような性格の集いが催されていたが、明治初期から1948年まで刺青を彫ることや彫師が仕事をすることも法律によって全面的に禁止されていたため、徐々に下火になっていく。戦後になってからは彫師のもとに愛好家が集まるか、祭りの際に愛好家が集まって神輿を担ぐ程度の規模にとどまった。高度経済成長を迎えて「落ち着いた」市民社会が確立しつつあった東京では、祭りが唯一といっていい公共の場で刺青をさらせる機会となっていった。三社祭のような大規模な祭りでは、愛好家や祭りを世話する鳶(トビ)の人々が刺青の披露や参加自体を遠慮せざるをえない状況となった。

 タトゥーコンベンション(タトゥーサミット)では、彫師による実演も行われる。実演のモデルは、会場内で募ったり常連の客にモデルになってもらうことも多い。すでに彫った生のタトゥーを見せながらその続きを入れていく方がより観客にアピールできるからだ。彫師にとって彫った時のはじめての観客が彫師自身であることは間違いないが、ここでは会場で実際に視線を投げかけてくる者が本当の意味での観客になる。彫師もモデルも普段より多くの人に他とは異なる自分を受け取ってもらうことができる。

 さて、刺青を考えるとき避けては通れない問題がヤクザと刺青の関係だ。特にヤクザだからといって刺青を彫らなければならないわけではなく、刺青を彫ったからヤクザというわけでもない。にもかかわらず、世間では刺青=ヤクザという見方が十分すぎるほどの説得力をもってしまっている。ヤクザを文化人類学の視点から調査研究したヤコブ・ラズの指摘はこうだ。「ヤクザは自己呈示がもつ伝達手段という要素を強く意識している。通常の社会と同じように、適切な呈示は役者が観客に伝えたいと思う地位を表明すると同時に創造もする。(略)もしヤクザの見習いが、高額の金をはたいて刺青をしたとすれば、その時点で彼はその地位を作り出し、同時に増強し、かつ表明したことになる。(略)ヤクザの一員となる決意を見せたのだから、組の中での地位も上がるし、また刺青をしてもらうときの苦痛に耐えたことで男を上げることにもなる。」「よく見かけるヤクザらしい外見と振る舞いは、単に外的表現であるだけでなく、それが内面化され、それを外に向かって演じたものである。行為者はエンターテイナーとしても自分の役割を自覚している。」刺青が自己呈示の手段として効用があったのは髪型や服装が職業を見分けるときの目安であった時代のことであり、刺青を見せて利があると考えるのはあまりに古典的過ぎるだろう。つまりヤクザの刺青も、同じ痛みを取った者同士の共感、共有が目的なのである。

第6章・見る者に与える影響

いくら刺青が所有者同士の共感が目的であっても、それでも刺青をもたざる者の中の多くは刺青を忌み嫌うものが多い。こうした風潮が生じたのは、1960年代以降に「やくざ映画」が量産され、実情以上に刺青のアウトロー性が強調されたことが手伝ったと考えられる。少なくとも1970年代までの時代劇は、刑罰に入墨が用いられていたことをしっかりと描いていた。温泉やスーパー銭湯の入口に「タトゥー、刺青、入れ墨などすべてお断り」を明記した案内板がある状態も90年代に顕著になっていった。しかし街頭で刺青をした人々が締め出されるようになったことと入れ替わりで、雑誌やポスター、映画などでタトゥーをした人物がしばしば露出するようになったのも90年代末ことだ。そのころはまだ大規模なタトゥー関連のイベントはなく、新宿の小さなクラブを借り切って彫師が実演をする程度のものだった。タトゥー関連のイベントが増加してゆくと共に、出版物も増えていった。1999年1月に不良たちを中心としたサブカルチャーをテーマにした月刊誌『BURST』は、国内外のタトゥー関連情報も取り上げていた。

 現在、日本の彫師はタトゥーと刺青の両方を手がける人が大半になっている。手掘りで伝統的な刺青を持つ人は、同じ彫師がマシンで作ったタトゥーをシールのように感じるという。日本の若者にもワンポイントのタトゥーを入れている人々が増えてきているが、全身を刺青で埋めつくした人に対して引け目を感じ、「恥ずかしい」と話す傾向がある。つまり、ファッション的な感覚のおしゃれなタトゥーを、刺青をしている人の世界では深い精神的な裏づけをもたないものとして見ている。『TATTOO BURST』編集長の川崎美穂氏は、日本人の場合、最初から身体にしっくりくる大きな図柄を入れたほうが精神的に落ち着く人が多いという。日本の伝統的な図柄の配置は左右対称で、全身や上半身をくるみこむように彫る。それは見る人に重圧感と威圧感を与える彫り方であるが、彫った人自身は図柄につつまれたような安定感を得ることができる。

まとめ

多くの人に理解し難いであろうことは、自ら痛みを取りにいくという点だろう。彫るということは必然的に苦痛を伴うのだから、ファッション感覚とは言いつつも皆一度は痛みを取りにいく決心をしている。刺青を彫るには一体どの程度の覚悟が要るのだろうか。横浜の彫師、三代目彫よしが施術した客およそ300人を対象に昭和63年から平成5年の間にとったアンケートによると、刺青に興味を持った年齢は13~18歳で71%を占めること、彫りたいと思う年齢は16歳~20歳まで平均し、18歳20歳が多いのは施術の許される年齢と関係していると思われる。関心を持った年齢、彫りたいと考えた年齢、そして施術の年齢の間には相当大きな幅が生じていた。これは施術の実現までに越えなければならないハードルがいくつもあると考えられる。(1)年齢的な制限(条例など)を超えること、(2)経済的に可能になること、(3)意志の確立されること、以上の三点をくぐり、かつその期間のあいだに初心を曲げないことが要件になる。まさにこれは関心をもって施術に至るまで短兵急で実現されるものでないことを裏付けている。

 日本は徐々にファッション化してきてはいるが、タトゥーや刺青を秘める社会である。日本では人前で見せるのははばかられ、人前で見えるところにも彫りにくく、彫っても隠すことに美学を感じる。秘める背景には、隠しつつもチラリと見せる「粋」という美意識を反映していることがある。もた、彫った人があえて露出することを抑制している面もある。それは、日本の刺青とタトゥーカルチャーがメインカルチャーに限りなく接近したとしても、多数派に忌み嫌われ、法の下で抑圧されていた歴史の根を引きずっていることが一因である。

 特に伝統的な価値観をもつ人は、刺青をいかに見せるか、どのタイミングで見せるか、あるいは自らのものとして秘める、という駆け引きの世界に生きている。こうした美意識は現代の日本の若者たちも引き継いでおり、タトゥーや刺青を衣服で隠れる部位に彫り「私だけのもの」にしている。プールや公衆浴場などで刺青やタトゥーをした人を締め出す風潮があることも、見せることを「封印」する心理の背景になっている。刺青を持つ者たちが痛みの共有や共感を目的とし、尚且つ秘めることを良しとする文化が過去の抑圧の歴史も相まって刺青を「関係ない人に見せるものではない」ものにしていると考えられる。

 また今回調べていくうえで私が感じたことは、刺青を持つ人の考えを理解しようにも、その考え方は千差万別で人それぞれ微妙に差異があるということ、そして本当に理解できるのは同じ刺青を持つ者だけであるということだ。長い歴史がありながらも持たない者たちが一向に理解できずに忌み嫌うのも、理解できないものに対する恐怖感があるのではないだろうか。


参考文献
斎藤卓志 刺青墨譜 なぜ刺青と生きるか 2005 春風社
山本芳美 秘める刺青、見せるタトゥー – 成瀬弘至 コスプレする社会 サブカルチャーの身体文化 2009 せりか書房
斎藤卓志 刺青 TATTOO 1999 岩田書院
田川とも子 文身とタトゥー  – 成瀬弘至 コスプレする社会 サブカルチャーの身体文化 2009 せりか書房


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