我が家の帰国運動

 久しぶりに祖母の家を訪ねた。大阪の北側、北摂地域でひとり暮らしをしているので、近くに用があったついでに寄ったのである。ばあさん孝行な孫である。母方の祖父母と父方の祖父がこの世を去ったいま、90近い祖母しか残っていない。幸いなことに、足腰以外は元気なので長生きしてくれるだろうと思うのだが、めったに顔を見せない孫がひとりで来たので後日「もう死ぬんかと思ったわ」などという話を父親にしていたそうである。

 韓国民団(韓国の出先機関)ばりばりの母方一家や父方の祖父と違い、祖母の一家は少々複雑である。民団側についた祖母もいれば、朝鮮総連(北朝鮮の出先機関)側のきょうだいや親戚もいる。いまでこそ我関せずな両機関だが、かつては殺し合いまでしていたほどの対立ぶりだった。

 とはいっても祖母の故郷は全羅南道の光陽である。韓半島(朝鮮半島)のいちばん南側だ。そんな祖母の一族で故郷が南にあるのに北韓国を支持している、というのはおかしな話に聞こえるかもしれないが、韓国も北韓国もあくまで「韓半島全土を支配する」という建前があり、お互いが実効支配できていない地域は「相手が勝手に支配している」と思っているのだ。だから韓国からすれば平壌は我が領土、だけど北が勝手に支配している、ということになり、北からすれば釜山は我が領土、だけど南が勝手に支配している、ということになる。

 領土だけでなくこれは民族とか国民についても同じである。北韓国は韓半島を出自に持つ人たちは北韓国の公民となりえる、という定義をしているらしく、だから自分も朝鮮民主主義人民共和国の国民になりえる、ということになる。実際、サッカー北韓国代表選手には南の韓国パスポートを持つ選手がいる。在日韓国人選手で北韓国代表に選出された選手たちは大会のときだけ北韓国パスポートの発給を受けるそうだが、そういう前提に基づいているそうである。北韓国から見れば建前は在日朝鮮人はみな朝鮮民主主義人民共和国の公民らしいのだ。

 その前提のもとに帰国運動というムーブメントがかつてあった。超ざっくりいえば、日本にいる朝鮮人は朝鮮民主主義人民共和国の公民だから「祖国」に帰ろうぜ!運動だ。

 発端は確か横浜の朝鮮学校だったと思うが、金日成に「祖国に帰りたいです」みたいな陳情書を出して、金日成が「よっしゃ来い」という話になり、日本や北韓国、赤十字などを交えて協議がはじまった。

 こうして北韓国の労働者不足の解消や、在日朝鮮人の帰国熱の高まり、日本は民族問題を「解消」できるということで利害は一致し、在日朝鮮人の北韓国への帰国事業が1959年からはじまった。10万人ほどの人たちが北韓国に帰国している。韓国民団側ではこの事業を北送と呼ぶのだが、この記事では帰国と北送という表現を使い分ける。

 祖母の家族にも北韓国に帰国した人たちがいる。祖母のきょうだいとその母親、自分から見れば曾祖母にあたる人である。日本での差別に苦しみ、貧困に喘いでいた在日朝鮮人たちは、当時流行っていた「みんなが平等に豊かになれる」という共産主義を国是としており、ソ連のバックアップでいち早く韓国動乱(朝鮮戦争)の焼け野原から復興した北韓国を支持する人が多かった。

 だが前述のとおり、北韓国は「祖国」だとしても、多くの在日朝鮮人にとっては「故郷」ではなかった。韓半島(朝鮮半島)の南部を出身地とする人が9割以上を占めるなかで、その故郷にかすりもしない北側に「帰国」したのである。なかには北側出身の人もいたのかもしれないが、ごく少数に留まるだろう。

 祖母のきょうだいのうち、まず兄がひとりで先に帰国した。いくら希望に満ちた「祖国」への帰国とはいえ、ある程度は北韓国の実情が知られたいまの時代とは状況が違う。たしかに赤十字や日本の各政党、なによりも朝総連などが「地上の楽園」だと喧伝していたが、とにかく実情が見えてこないのでただただ不安だったそうだ。そこで兄は、北韓国から最初に送る手紙が縦書きなら「来てもいい」、横書きなら「来るな」という暗号を決めたという。

 兄から来た手紙は横書きだった。内容は「将軍様の計らいでいい生活ができている」とかそんな内容かもしれないが、とにかく先陣を切って帰国した兄は「来るな」と言ったのだった。

 我が家で帰国事業は失敗だとわかった。しかし曾祖母はこの手紙を読んで、まだ幼かったほかのきょうだい4人を連れて北に帰国してしまった。我が子をひとりだけ見知らぬ土地に置いておけないと、まわりの制止を振り切って行ってしまったらしい。6人もの家族が北韓国へ帰国したことになる。

 なにもこの時代だけの話ではないが、誰もかしこもイデオロギーを明確に持っているわけではない。「社会主義祖国建設のため」と意気込んで帰国した人もいるが、なんとなく北のほうがいいと思って支持していた人が多かったはずだ。そして帰国した人のなかには、曾祖母のような人も少なくなかったのかもしれない。

 曾祖母がほかのきょうだいを連れて帰国したのち、祖母の一族は分裂した。地名でいえば、大阪と小倉の家が兄を行かせるべきではなかったと主張しており、熱心な北韓国のシンパだった広島と大分の家は決裂した。家庭内分断だ。

 この帰国騒動以来、広島の親戚との付き合いはないという。そもそも祖母はこのとき民団の祖父と結婚していた。もういちど言うが、誰しもが明確な政治思想を持っているわけではないのである。多くの人はなんとなく北がいいとか、大韓民国に身内が殺されたから北(韓国建国当初はアカ狩りが盛んだった)、というのだったのだろうと思う。そこに帰国運動という大きなムーブメントがあり、それに乗っかったり乗らされただけなのだ。

 知ってのとおり、いまも北韓国と日本は自由に往来できない。朝総連の活動家なら話は別だろうが、帰国した人民にそんな権利はない。もちろん故郷がある南にも行けない。国内の移動すら自由にできないという。知っていれば誰も帰らなかったかもしれないが、熱狂のなかで地上の楽園だと宣伝されれば日本での苦しい生活からも逃れられるだろうと思って進んで帰国したのだろう。

 広島の家は朝総連の活動に熱心になり、あちらで幹部をしていたのだという。又聞きなのは、父親ですら広島とは二回しか会ったことがないので、詳しいことは知らないからである。

 いまでも朝鮮総連の活動家は韓国に入国できないそうだ。ヒラ団員なら行けるそうだが、長らくそれもできなかった。南に故郷がありながら南にも北にも行けなかったので、南に親戚がいる朝総連の人は当然ながら家族にも行くことができなかった。しかし韓国民団(大韓民国の出先機関)の活動家だった祖父と結婚した祖母は、朝総連活動家と帰国者が身内にいるので韓国では監視対象だったそうだが、それでもいちおう日韓間の往来ができた。

 父親が初めて広島の親戚と会ったのは深夜の広島駅だという。釜山に飛ぶプロペラ機に乗るため、大阪から福岡に向かっていた夜行列車で深夜に起こされた父親は、おなじ日本に住む分断線の向こう側の広島の親戚と少し挨拶をして、広島駅のホームから大量の物資を列車に積み込んだそうだ。韓国に入国できない広島の親戚がむこうの身内に渡す物資だった。当時、韓国は貧しかった。この先、父親がこの分断線を越えたのは、数年前に広島での葬儀があったときだけだ。

 では広島とは完全に分断されて、まったく交流がなかったのかといえばそうでもないらしい。この前、祖母と会ったときに聞いたのだが、父親は知らなかっただけで祖母は自分のきょうだいたちと連絡を取り続けていた。やはり身内なのだ。日本の国内ならば分断線は容易に越えられる。いまは仲良くしているのだというが、かつてはそうではなかったというのが話しぶりからわかる。

 祖母はいちど北韓国に渡航している。広島は朝総連でもかなり位が高いそうで、おそらく口利きしてもらったのか、民団の活動家のキリスト教徒と結婚した祖母でも朝総連が仕立てた親族訪問団に参加できた。そんな祖母の親族訪問も30年ほど前のことで、もう祖母のきょうだいたちはこの世を去ってしまった。北で撮ってきた写真をみながら「きょうだいはみんな逝ってしもうたんや」と言う祖母の顔は寂しげだ。帰国させなければ30年も会わないことはなかったし、広島だろうが小倉だろうが大分だろうが頻繁に顔を合わせることもできただろう。自分と歳の近い親戚もいるらしいが、会えることがこれから先あるのだろうか。

 祖母のきょうだいは北に行ってしまったが、そのとき既に民団の活動家だった祖父は行かないように説得はしたのだという。映画「パッチギ」には帰国を控えた宴会のときにおっさんが「民団は行くな言うし」とぼやいていたシーンがあったが、おそらく民団は北送を阻止するための動きをあちこちでしていたはずだ。韓国からも工作部隊が送られていたというから、かなり大規模なものだったのだろう。

 民団の歴史を習うと、北送阻止運動といえばいいのか、民団新潟のビルに「帰国するな」という横断幕が掲げられていたり、新潟に向かう帰国列車の前に寝そべって出発させないようにしたりといった写真を見ることになる。祖父もおそらくそういった運動に参加していたはずで、帰国を考えている同胞を回って「行くな」と説得していたのだろう。母方の祖父も民団の活動家で、おそらくそのあたりにも関わっていたはずなのだが、母方の家は全員が民団で帰国者がいなかったためか北送にまつわる話を聞かない。やはり当事者がいるかいないかで印象はぐっと違ってくる。

 帰国運動は1960年代前半にピークを迎え、北の実情がわかるにつれてだんだん帰国者が減少して、組織的な帰国運動は1980年代に終わった。よく言われる通り、帰国した身内を人質に取られたように、主に金銭や物資などを要求されたという話は多い。もしあるとすれば祖母の一族ではおそらくその役割を広島と大分が担っていたはずだ。広島の身内が朝総連で大幹部になったのは、組織内で出世することで民団側に血縁者がいることや帰国したきょうだいを人質にさせないためなのではないかとも考えられる。

 帰国運動ではないが、朝総連同胞に向けた南への母国訪問事業を民団が企画したのは1975年からである。韓国に入国できなかった朝総連同胞を対象に、親族訪問をメインにツアーを組んだのだという。漢江の奇跡で経済発展を遂げて南側の経済的優位が明らかにされていた時期であった。北への不信感も大きくなっていき、韓国の経済発展を見せつけることもとうぜん目的としてはあっただろう。この母国訪問事業にはのべ5万人が参加した。

 民団の記念誌には、移動式ベッドの上で寝たきりのまま「祝 韓(某)帰郷」という横断幕をもって、30年以上ぶりに息子と会うことができた老人の写真が写真が残されている。きょうだいか友人か、母国訪問団がバスを追いかけて別れの挨拶をする写真もある。おばちゃんどうしが涙の再会をしている写真は民団のホームページに載っている。

 このときに母国訪問事業に参加した朝総連同胞は、いくら民団が企画したとはいえ、北に帰国したきょうだいや身内がいるという人は南に入国するというだけでもそうとうリスクのある行為だっただろうと思う。それでも南に訪れる理由があった。韓国は急速な経済発展と、なによりも在日韓国人の故郷があるという点で北よりも優位に立つことになる。この事業は民団では成功ということになる。

 ここまで帰国運動と母国訪問事業について述べてきたが、おおよそ運動とか事業とか名の付くものはロクでもない、というのは組織活動をしていると半ば常識になると思うのだがいかがだろうか。突拍子な結論を出すかもしれないが、朝総連も民団も、北韓国も韓国も、そして日本も、組織とか国家というものは、組織とか国家を維持するために存在しているのであって、個人の人生に責任を持ってくれないということだけはわかった。

 僕は一度も会うことなく死んでしまった叔父のことを考えていた。日本から北朝鮮まで、飛行機ならどれくらいで行けるのだろう? 二時間? 三時間?僕は同じくらいの時間を使って、韓国には行ける。でも、北朝鮮には行けない。何がそうさせるのだ? もとを糺せば、韓国だって北朝鮮だった、ただの陸地じゃないか。何が行けなくしているのだ? 深い海か? 高い山か? 広い空か? 人間だ。クソみたいな連中が大地の上に居座り、縄張りを主張して僕を弾き飛ばし、叔父と会えなくしたのだ。信じられるかい? テクノロジー全盛でこれだけ世界が狭くなっている時代に、たった数時間の場所に行けないことを。僕は北朝鮮の大地に居座って、えばり腐っている連中を許さないだろう。絶対に。

(金城一紀(2007)「GO」角川文庫)

 引用した小説「GO」には、帰国運動で北に渡り、主人公といちども会うことなく亡くなった帰国した叔父のことが書かれてある。北朝鮮の大地に居座ってえばり腐っている連中がいるせいで、身内なのにいちども会うことができなかった。政治とかイデオロギーとか、そういったものが国境線を引き、たくさんの人たちを引き裂いてきた。38度線にも、我が家には広島にも、分断線が引かれた。北韓国に帰国した人たちにも会えないし、朝総連の人は故郷にすら足を踏み入れることができなかったのだ。えばり腐っている連中がいたのは韓国もおなじである。

 祖母が30年ほど前に訪れた北韓国は貧しかったそうだ。いまも状況は変わらないだろう。お金もなければモノもない。職場に行くために毎日2時間ほど歩いていたので、日本に戻ってから祖母は自転車を送ったのだそうだ。中国との国境近くの町に住んでいるのだが、そこは故郷の全羅南道の光陽からは程遠い。帰国はしたが、帰郷ではなかった。そしていちども光陽に行くことなく、北の寒い大地に骨を埋めた。組織と国家の正当性のために、犠牲になってしまった祖母の親ときょうだいたちを、なぜ北に帰ったのかと責めることはできない。

 前述の「GO」をもういちど引用する。主人公が父親に向けて言った、ねぎらいのことばだ。そして自分も、こう言いたい。

「いつか、俺が国境線を消してやるよ」

(金城一紀(2007)「GO」角川文庫)

 また違う作品にはなるが、梁石日の小説「血と骨」の映画版で、北韓国(北朝鮮)に「帰国」する人たちのシーンが描かれている。帰国者たちが特別仕立ての列車に乗り込み、北韓国の国旗や横断幕がたくさんかかった大阪駅のホームから金日成将軍の歌を歌う場面がある。

 そのシーンとおなじように、祖母は大阪駅で自分の兄を見送った。地上の楽園なのか、この世の地獄なのかもわからないところへと旅立った祖母の兄は、どんな顔をしていたのだろうか。祖母に尋ねても、暗い顔で「あのとき行かさんかったらよかった」と繰り返すだけだ。

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