森本のおっさん

 民族学校に入る前、地元の韓国民団(在日韓国人団体)の支部の韓国語教室に通っていた。大きな支部ではないので子ども向けクラスがなく大人といっしょに学習するのである。先生は韓国に留学経験もあり韓国語教師としてのキャリアも長い在日韓国人の先生で教え方も上手かった。そんなかんじで、ぼろい支部会館の会議室で韓国語の基礎を学んだ。

 父親に文字を教えてもらっていたこともあって、入門ではなく初級クラスから勉強を始めた。ちなみに在日韓国人二世の父親は韓国語の読み書きができるが会話ができず、おなじく二世の母親は会話はできるが文字の読み書きができない。ふたりセットでやっと韓国を歩き回れる。

 韓国民団は口を開けば支部に「自助財源」を求める。支部にまともな財源があるはずがないので、だいたいどこの支部も韓国語教室で糊口をしのぐのが精いっぱいだのだが、折しも第一次韓流ブームというべきか、韓国語学習熱が近所のおばちゃんたちにまで広がっていた時期だ。受講生は簡単に集まった。

 初級クラスの受講生は10歳そこらの僕以外に、日本人のおばちゃんたちが5人と、地元で有名な不動産屋の社長・森本(仮名)のおっさんだった。日本人のおばちゃんたちは口コミか何かで集まったようだが、森本のおっさんは在日韓国人で、当時の支団長との個人的な付き合いだかで韓国語教室に通い始めた人だった。授業は毎週木曜日の夜。支部は家のすぐ近くなのでガキの僕でも無理なく通えた。

 初級クラスはまずハングルの復習から始まり、そこから文法に入っていった。日本人のおばちゃんたちは独学して、森本のおっさんはどこかで習っていたのか、いちおうみんなハングルの読み書きはある程度オッケーということで、授業が順調に進んでいった。

 このとき僕は日本国籍に変わったばかりだったのと、近所で「武田さんところの長男」と認識されていたので、いちおう武田で通っていたのだが、あるとき先生に「武田くんは民族名があるのだからそれを使ってみよう」と言われた。民団社会では通名使用が一般的で、武田だろうが森本だろうがそのまま通ってしまうのだが、先生なりになにか伝えたいこととかがあったのかもしれないと思う。漢字で李からはじまる民族名をハングルで書いたら先生がほめてくれた。それ以来、講座のなかではこの名前になった。

 森本のおっさんはいつも僕のうしろに座っていた。仕事おわりにそのまま来ていたのか、いつもスーツを着ていた。僕の民族名が褒められたと思ったら、森本のおっさんも巨体を丸めてノートに何やら書きはじめ、先生に「僕の名前、これで合ってるかな」と尋ねた。うしろを向いてノートに目を落とすと、ふだん使っている森本につく名前とは違う名前が書いてあった。金京植。これが森本のおっさんの民族名で、下に김경식と丁寧なハングルで書いていた。森本のおっさんがどこでハングルを習ったのか聞いていないが、おおきなからだの割に繊細なハングルを書いていたのを覚えている。先生が「森本さんは金京植さんっていうんですね。あってますよ」と言ったとき、満足そうに「そうか、そうか」と笑っていた。

 おしゃべり好きなおばちゃんたちの集まってている講座である、授業のあとにいつも少しみなで雑談して帰るのが定番になっていたのだが、森本のおっさんはいつもおばちゃんたちの話には入らず、すぐに帰ることが多かった。だがその日は珍しくおっさんが話題を持った。「僕は20代のときに帰化したんや。日本人の嫁と結婚したし、仕事するにも朝鮮人やったらなにもできんかった。それに朝鮮人っていうのが嫌やってね。この歳になってやっと、韓国語を勉強してみよか思うようになった」。当時おっさんは還暦を迎えるかどうかの年齢だった。こっちをみて「ボウズはええな。いまは李でも武田でも選べる。僕のときにはそれができんかったんや」と言われた。あの韓国語教室で森本のおっさんが身の上を語ったのはこのときだけだったと思う。先生やおばちゃんたちとしばらく話してから、おっさんはいつものように高級車に乗って帰っていった。おっさんが築き上げた城、森本不動産まではたいした距離でもないのに。

 森本のおっさんは20代で帰化した。家族やまわりとどういうやりとりがあったのかわからないし、なにより帰化をすることじたいが今より何倍も難しかった時代だ。70年代に帰化したということは、民団や朝総連いった民族組織とも縁を切ることを意味していた。実際には日本籍の団員などもいるのだが、森本のおっさんは民団には来ていなかった。この支部に長年いる僕の母方の親戚がそう言うのだから間違いないだろう。

 森本のおっさんのことを思い出したのは、先日、帰宅時にたまたまおっさんの経営する不動産屋の前を通ったからである。韓国語教室には二年ほど通ったが、民族学校に入ることになったので行かなくなった。学校で韓国語を教えてもらうのにわざわざ行く必要もないだろう。そのあといつまでいたのかわからないのだが、森本のおっさんも韓国語講座を辞めたというのは親から聞いた。おそらくおっさんはキリのいいタイミングまで勉強したのだろうと思う。

 余談だが、僕と森本のおっさんが抜けた後の支部韓国語講座は日本人のおばちゃんたちだけになり、みな勉強熱心なこともあってかなりハイレベルなことをしていたようである。この10年後くらいに地元の飲み屋でたまたま授業終わりのおばちゃんたちに会い、そのあともずっと講座が続いていることを聞いた。支部の自助財源に貢献したのかはわからないが、長く続くことはいいことだ。

 森本のおっさんだが、講座に通っていたときから親に「森本とあんまり関わるな」と言われていた。10歳のガキでも知っていたほどの地域の有名人なのだが、悪い方向で名の知れていた人だった。大人たちは「森本は商売が汚い」と言っていたし、いまもあからさまに嫌がる人も多い。いろいろなトラブルがあったのかもしれないし、若いころはかなりとんでもないこともやっていたはずだ。土建屋のうちの父親も漏れなく、森本の名前を聞くだけで嫌な顔をする。あのときは韓国語教室で巨体を丸めながら一生懸命ノートをとっていた姿しか知らなかったのだが、ガキながらにあの高級車にはなにかあるんだろうなとは思っていた。

 僕は地元の支部の活動にもいろいろ出たりしていたのだが、支部で森本のおっさんに会うことはなかった。森本不動産の社長室に行けば会えるのだろうが、特に用事もないしいまさら会う気はない。親や親戚や地元の同胞たちに「なにしに行ってん」と言われるのが目に見えている。

 支部の韓国語教室に通い始めたのも当時の支団長との個人的な縁だと聞いた。たしか支団長も不動産関係で、なにかで会ったときに「こんど支部で韓国語教室するから森本さんも来ますか?」とでも言ったのかもしれない。とはいえ、誘われただけでは還暦を迎えた老人を動かさないだろう。もう韓国から目を背けなくていい時代になったからかもしれない。

 若いころに国籍を変え、不動産で財を成したやり手のおっさんが、みずぼらしい支部会館に毎週せっせと通い、おそらく数十年ぶりに金京植という名前を名乗った。どこでその名前を出しても「あいつはほんまにえぐい商売をする」と言われているほどの人だ。きっと関わってはいけない人物かもしれない。それでもあのときの嬉しそうな顔が印象に残っているのである。

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