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BFC5落選展感想76~78

BFC5落選展の感想です。リストはkamiushiさんによるまとめ「BFC5落選展」をお借りしました。


LIST76 「バース/バース」蕪木Q平

 こちらの作品は全体公開ではなく、X(旧twitter)のDMで読みたい旨を伝え、データを送付してもらう形式です。お聞きしたところ感想は自由に書いて良いとお返事をいただきまして、こうして記事になりました。

 リストに※(コメジルシ)が付いていたのでDMする勇気が出たのです。これが無かったら、今まで通り「感想は差し控えます」になっていたでしょう。作家側の意思表明ってけっこう重要だなと思いました。

 だって感想を書かれたくない書き手もいるわけです。本当に人それぞれです。まず公開して半年も経った作品の感想が書かれた時点で「え!?」てなると思う。で見てみたら(はぁ~?)って内容だったりする。どうしよ、一応リアクションしないと失礼なのか? でも、でも・・・。

 想像するだけで胃が痛くなる。無理しないで。春Qも無理しないから。趣味で感想を書いているだけだから。リアクションをもらえたらモチロン嬉しいですけど、それは何もないのが普通だからです。オールオッケー。

 言葉は難しいですね。人間は意思を持ち言葉で表明する。その手段を持っているから傷つく/傷つける不安が大きくなる。ならば言葉を持つ前の幼い子供であれば自由でいられるのでしょうか。本作はそういうお話です。

◇「バース/バース」あらすじ

 ある保育所の風景。床に落ちた苺を食べようとした児童・仁生(にお)が、先生に止められて泣きだした。新任の保育士・あす先生は落ち着かせようと積み木を握らせるが、仁生はそれを放り投げてしまう。別の児童の額にぶつかってしまい、あす先生はほかの保育士から叱責を受ける。
 泣く仁生を抱いて、あす先生はベランダに出た。二人は先ほど拾った苺を回し食べする。先生は早く喋れるようになるといいね、と仁生に言った。沈黙を守っていい子でいるより「わるもの」を作ったほうがいいから、と。


 三人称の小説ですが、独特な文法で書かれています。

 あるが赤し、丸いしている。
 手を伸ばすとすべてが回り、仁生は天井を仰いでいた。蛍光灯からのびる光が、二重、三重の斜線を引いている。感じるが背、温度めき、熱なる。

「バース/バース」蕪木Q平

 床に落ちた苺を仁生が取ろうとした場面ですね。仁生の肌感覚を優先した文法は、詩のような響きで美しい。詩情を優先した文章は状況がわからなくなりがちですが、登場人物のセリフや行動でうまく補っています。

――あれ ぜんぶ ひろったと おもいましたけど じゅりじゅり ほんとに きらいなんですね
――ふるーつぜんぱん えぬじーかもね じゅり に くらべたら にお は おちてればなんでも かんでも すぐ
――おくちへごーですね

「バース/バース」蕪木Q平

 舞台ですが、作中にあす先生が幼児語を使うのをやめようと言われるシーンがあります。私の中では子供に幼児語を使うのは自然なことだったので(あ、知的障がい者の福祉施設とかの話? 言動は幼くても一人の人間として扱おうとか、そういう・・・)とも思ったのですが、「こども のまえに おかね もらってるの みんな」という発言、あす先生が仁生を抱き上げている点、「園庭」で遊ぶ「年長組のこら」という単語から、保育所の話だなと判断しました。幼稚園、保育園、認定こども園、いろいろありますが、ここではひっくるめて保育所と書いています。

 話の中ほどで焦点が仁生からあす先生に移ります。ここもわりとシームレスで、大人と子供を平等に扱っているように感じました。

 うろうろと動揺していたまなざしが急に張り付いてきてサトウアスは狼狽えた。保育室にはいくつもの泣き声が錯綜している。糞尿のにおいもやり過ごせなくなってきた。

「バース/バース」蕪木Q平

 焦点が移るということは、仁生視点の独特な文法から自由になれるわけです。極端な話、空白行を入れて文体を「〇〇保育園は今日も大忙し。新人保育士・佐藤あすは先輩にキレられてしょんぼり・・・」みたいにガラッと説明口調に変えることもできるけれど、そうはしない。むしろ最低限の情報量を維持しながら仁生の見る世界のほうへ接近してゆく。

◇子供と大人の同一性

 園庭では何やら揉めています。それを見ながらあす先生は仁生にこんなことを言う。「あなたも はやく しゃべれたらね」「だまってたら いいこになれるけど」「わるもの つくれるほうが いいじゃんね」。

 先に幼児語のくだりが出てきたのも、このあたりに絡めてなのかなと思いました。今まさに言葉を獲得しようとしている仁生に、正しい言葉かけをしなければならない。しかし言葉を身に着けるのは積み木を持つのと同じです。時には投げた積木がひとを傷つけてしまうこともある。

 それでも、あす先生は「しゃべれたらね」と言う。「いいこ」でいるより、「わるもの」を作るほど意志を表明できるほうがいいからです。

 子供はいずれ大人になるし、大人はかつて子供だったことがある。フィクションの世界では設定がものを言うので忘れられがちですが、現実問題として子供と大人の間に明確な線引きはできません。

 ラストシーンで二人は同じ空を見て同じ表情を浮かべます。

 あべこべに映し出されたそれぞれの街は、やがて分厚い雲に蔽われて、二人は同時に眉を顰めた。

「バース/バース」蕪木Q平

 この時、仁生はあす先生に前抱っこされた状態でエビぞりになっています。なので見えている世界が上下反転している=「あべこべ」なんですね。言葉を獲得する前の仁生。獲得したあとの先生。それでも同じことを感じているんだよ、大人だから子供だからじゃないんだよ、ということなのかな、と思いました。

LIST77 「左胸」中島晴 

 香山哲の「レタイトナイト」はご存じですか。

 今月の頭にコミックス1巻が発売しました。ファンタジー世界をゆるくサバイバルする内容ですが、4話目から出てくるカメがマジで可愛い。荷運び用の駄獣でわっしわっしと歩く目力の強いカメ。もちろん言葉は通じないけれど、人生にはこういうお供がいてほしいと思う。

 なぜってカメと共に旅することで「自分は疲れていないけど、ちょっと引き返したところにある宿に泊まろう」みたいに余裕を持つことができる。カメに「よくがんばったな」と声をかけ「自分もがんばった」と呟く。カメがのおかげで旅の質が向上するのです。

 本作にも、四つ足の旅の道連れが登場します。人間ではない、自分と一緒にいてくれる存在って心強いよな、と思いながら読みました。

◇「左胸」あらすじ

「私」は川沿いの道を歩いている。川を挟んで隣の道に「あなた」がいる。二人は浅い川を行き来して一緒に歩いたり、他の場所へ行ったりした。しかし歩くうちに川幅は広くなり、橋を使わなければ行き来が難しくなった。

 時が経つにつれ「あなた」は他の人と共に歩くようになった。「私」もヤンという四本足の動物と連れ立って歩いた。歩くペースが落ちたため、「私」は「あなた」を見失う。再び川むこうに姿を見つけた時、「あなた」は三人連れになっていた。その人数は見るたびに増えた。「あなた」が橋を渡ってくることはなかった。

 ある日、ヤンが動かなくなった。「私」は川沿いに建つ空き家でヤンに寄り添う。やがて、冷たくなったヤンを埋葬するために中州へ向かった。ひとしきり泣いたあと、「私」は中州に寝転んだ。太陽光で充電したバッテリー(?)が、「私」の左脇で震えた。


 全体としては川沿いの道を歩いていく話なのですが、それがなぜなのかとか、どこへ向かっているのかについては書かれない。また、「あなた」との関係に重きを置いているようでいて、話の中心はヤンとの別れにある。不思議なお話です。しかも、とても読みやすい。

 これはきっと、作中の目的が感覚としてハッキリしているからじゃないかな。人間は本人の思いとは無関係にこの世に生まれてきます。人生を生きることに選ぶ余地がなかったのと同じように、この物語ではあらかじめ川沿いを歩くように決められている。私が人生を川や道に例えるわかりやすさに引っ張られているかもしれないけど、そこは本能で読んだ。

 あと、蒲公英(たんぽぽ)のくだりが面白かった。少し長く引用します。

 当時は知らなかったが蒲公英は知恵者だ。古くから智将を多く出した一族が滅びた丘に咲くにはふさわしい花だったのかもしれない。蒲公英は地上の大きさに比べて根ははるかに長く、一メートル近いこともある。冬の間もロゼッタ葉を広げ薄日を拾い、春になるとすぐに茎を伸ばし花をつけ、早過ぎる羽化をしてしまい寒さに戸惑う虫たちを集める。丸く可憐なスカートのように広がる白い花は実は小さな花の集りで一つ一つの小さな花に種ができる。その種を風に乗って運ぶ綿毛の元は無数のガクだ。なるべく遠くでなるべくたくさん仲間を増やすという植物に共通の願いのために蒲公英はガクを増やすという戦略を選択した。長い長い淘汰の歴史の中で戦略の選択に成功したのは蒲公英だけではない。こうして今も生き残っている植物も動物もあなたもみんな勝者だ。

「左胸」中島晴 

 緩急が上手い。絶対に蒲公英の詳細な説明が必要!という箇所ではないと思うんですよ。むしろ、こういう説明って無難に掌編を書こうとしたら省略されてしまうと思う。でも、ここにきちんと字数を費やすから説得力が生まれる。小説らしい詩情だと感じました。

 なんて言ったらいいのかな、短歌でも57577の全部に意味をつめこむと重くなってしまうから、5音か3音は遊びの部分を入れるといいよ、というような言い方をされたりするんですが、そんな感じだ。

 で、完全に無意味ってわけでもない。「こうして今も生き残っている植物も動物もあなたもみんな勝者だ」という書き方には、「私」が含まれていなくて、だからほんの少しだけこの先の展開を知らせてるのかな、と思った。

◇ずっと悲しかった

「彼」や「彼女」「幼馴染」ではなく、「あなた」と書かれているということは、このお話は「私」から「あなた」にあてて書かれているのだと思う。

(略)私は何に対しても無頓着だった。川の向こうの道をあなたが誰かと二人で歩いているのを遠目に見てもそんなものかと思うだけだった。

「左胸」中島晴

「あなた」と連れ立って歩く人がどんどん増えて、「私」に会いに来ることがなくなってもどう思っているのかは一切書かれない。その思いがヤンの死によって決壊する。

中州には白い蒲公英の花がたくさん咲いていた。わかったふりをしていた悲しみと孤独が触れそうなほどくっきりと形になり、突然、涙があふれ始めて驚く。

「左胸」中島晴

 本当は思っていることがたくさんあったんだろうな。「私」は「あなた」も「ヤン」も失い、身一つで寝っ転がる。なんにもないんだけれど爽やかな場面で、とても良かった。

 ・・・で、どうしてもわからないんですけど、ラストシーンの「私の左脇で震えた」「充電が八十パーセントを超えたことを教える小さな信号」を発するものって一体なんなんだろう? 私は初読時に(そうか!ヤンは実はペットロボット的なやつで、日の光を浴びて復活したんだ!)と思ったんですが、よくよく読むと、これって埋葬したあとのことなんですよね。じゃ、実は「私」がロボットだったのか? 謎だ・・・。


LIST78 「基準(あるいは「声」)」峯岸

 聖書、一生に一度は読んだほうがいいです。最近は無料で読めるアプリもある。オーディオブックなので暇なときに流し聞きするといいです。

 もうね、聖書を知ってる知らないで海外作品の解像度が全然変わってきますから。『ナルニア国物語』だけの話じゃないんですよ。『エデンの東』も『カラマーゾフの兄弟』も『魔の山』も、読むのがホント楽になる!

 ただ女性とLGBTQへの配慮は皆無なので、書いてあることを本気にしすぎるとちょっとキツいかもしれない。私も読んでてこんな同性愛差別の本がフツーに本屋に売ってていいのかよと思った。ああそういう世界観なのね、と飲み込めれば、こんなに面白い本もそうそう無いんですけれども。

 さて本作は聖書の一節を引いています。キリスト教って本当にたくさんの教派があるんですが、たいていの場合「復活」は重要な教義に含まれます。キリストを信じ洗礼を受けた者は死のくびきから解放される。たとえ肉体が滅んだとしても、キリストが再び世を正しに来る時、信者もその栄光に預かって復活を遂げる。・・・もうこの設定を見ただけで、古今東西のフィクションの元ネタだということがわかるんじゃないでしょうか。

 というわけで、聖書を読んだことのある春Qはたいへん楽しく読みました。リスペクトとアイロニーのバランスがとれた掌編でした。

◇「基準(あるいは「声」)」あらすじ

 死後、長い年月が経っている「私」。今の「私」に記憶はないが、生前の行いがある基準を満たしたために「真の復活」の機会を与えられた。
 真の復活とは、三種類の天国を指す。「私」はそのうちのいずれかを選ばなくてはならない。

 ①の天国は、自分と同じく選ばれた者だけが住まう楽園。一般にイメージされる天国だが、生前親しくしていた者たちがそこにいる保証はない。しかしそのことに哀しみを覚えることもないという。

 ②の天国は、自らの記憶が生み出した幻。何もかもを思い通りにでき、退屈することもないが個人的な天国なので実際に外部に影響することはない。

 ③の天国は、神の国。天使の一員となり神に仕え、生前の記憶も消える。神と一体となった幸福を永遠に享受することとなる。

「私」は熟考ののち「声になりたい」と結論を出した。「自分自身が声となり未来の同胞の選択を見守りたい」と伝える。少しして②か③の天国へ行くことになると伝えられるが、そのどちらなのかは教えてもらえなかった。


 番号を振られた天国におかしみを感じた。一般的な日本人の認識として死後の世界といったら天国と地獄の二択だと思うが、天国だけで三つもあるのだ。これは主体がなんらかの基準を満たしていたため与えられた選択肢なのだが、読者は(自分が行くならどの天国がいいかな)と考えることになる。

 ちなみに教会関係者から話を聞く限り(そこはプロテスタントのバプテスト教会)多くの信徒が想定するのは①と③がミックスされた天国のようだった。つまり信徒は死後、個別性を失わずにキリストに仕えるらしい。

 確かに聖書を読んでいてもこのへんは疑問で、だって生前の記憶や人格が保持されたままだったら、絶対に信徒の間で揉めると思うんだ。あのひとと同じチームで働きたくないとか、あのひとの仕事ぶりが嫌いだとか、いろいろ。だから記憶は消されたほうが仕事しやすい。しかしそこは人間なので、自分は自分のままでいたい気持ちがある。っていうかキリストの神だって、絶対服従のロボットに仕えてほしいわけじゃないと思うし。

 なので、けっこうウヤムヤな印象。突っ込んで聞いても「まあ神様がなんとかしてくれるし、死後のことは希望として覚えておけばいいのだよ。今は生きることに集中するのだ」とごまかされてしまうことではある。

 そういう事情もあるので、②の天国についても「なるほど!」と思いました。確かなことがわからなくて、自分にとって都合のいい天国を信じるしかないなら②と同じなわけです。

◇声になりたい

 自分は声になりたい――自分自身が声となり未来の同胞の選択を見守りたいのだと伝える。

「基準(あるいは「声」)」峯岸

 この選択には意表を突かれました。声。声?って、なんだろう。主体に話しかけているような存在になりたいということだろうか。あるいは聖書にはこういう一節がある。

 それで、彼らはヨハネに言った。「あなたは誰ですか。私たちを遣わしたひとたちに返事を伝えたいのですが、あなたは自分を何だと言われるのですか。」
 ヨハネは言った。「私は、預言者イザヤが言った。『主の道をまっすぐにせよ、と荒野で叫ぶ者の声』です。」

ヨハネの福音書第1章22-23/新改訳2017

 このヨハネはサロメに殺されることで有名なひとですね。自分はキリストではない、キリストが来ることを知らせるための声だ、と言っている。「そろそろキリストが来るんですよ。信者の方も非信者の方も自分の行く天国について考えたほうがいいんじゃないですか」みたいな感じ。もしかして、本作の「声」もそういうのか?と思った。

 もちろん冒頭に聖書の引用があるからといって、読みをキリスト教に引き寄せすぎるのはよくないと思う。が、聖書は信徒の声の集積でもあるし、一概に違うとも言い切れない。

 というのもこの「声になりたい」という言葉からは何かキリスト教的な香りを感じるからです。同胞に奉仕したい思いというか。少なくとも「同胞が思い悩むところをニヤニヤしつつ眺めたい」みたいな意地悪な気持ちがあるわけじゃないでしょう。

 面白いのは、主人公にはそれくらい奉仕したい思いがあるんだけれども、行くのが②と③、どっちの天国かわからないってところだ。「そんなことは知る必要がない」という天の声には、強烈な自己批判を感じる。

 この結末には一定の説得力がある。結局のところ人間に死後の行先を決める権利などなく、神の沙汰を待つことしかできない。神の決定を信じ自分の行く先を託すことを世間では敬虔というそうだ。


次回更新は6月21日の予定です。

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