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BFC5落選展感想67~69

BFC5落選展の感想です。リストはkamiushiさんによるまとめ「BFC5落選展」をお借りしました。

LIST67 「竜を呑む」藤崎ほつま

「画竜点睛」って面白いですよね。一般的には「画竜点睛を欠く」という使われ方をすることが多い。最後の仕上げが不十分だ、みたいなネガティブな意味です。つまり竜には目を描きいれるべきだとしている。

 この言葉の成り立ちはこうです。張僧繇が四頭の竜の絵を描いた。しかし目は描きいれなかった。なぜかというと目を描くと本物になって飛んで行ってしまうから。ところが大衆がこれに納得しなかったので、仕方なく二頭にだけ目を描きいれた。すると二頭の竜は実体化して飛び立ってしまい、あとには目のない二頭の竜だけが残った。

 これって目を描くべきだったんだろうか? 完全な竜は飛び立っていなくなってしまう。不完全な竜であれば絵の中に残る。もの作りをする人たちにとってはなかなか深遠なテーマなのではないでしょうか。

◇「竜を呑む」あらすじ

 画竜点睛の奇蹟に憧れ、張僧繇に師事する焦宝願。美大卒業後は市役所で働きながら墨彩画教室を手伝い、さらに睡眠時間を削って制作もするという多忙ぶりだ。少しでも筆に触れていたいと思うが、ぎりぎりの生活に限界を感じてもいる。お盆休みには久しぶりに帰省することにした。

 故郷で雨に降られ、落雷を見た時だった。インスピレーションを得た焦宝願は作業場へ駆け戻り一心に竜を描く。睛を入れた時、竜は見事に実体化した。が、天井までは飛び跳ねたものの落下してしまう。それでも飛び立とうとのたうつ竜に焦宝願は震えた。衝動に駆られ、竜を頭から尾まで吞み込んでしまう。翌日、彼は腹を下して寝込んだ。


 上質な掌編でした。ルビが多くて助かった。「波止(はと)」「笄(こうがい)」「髻(もとどり)」あたりは完全に知らない言葉でした。「鯢(さんしょううお)」も山椒魚なら読めるけど、一字で書けるんだ。

 私は受験の時に「英作文では嘘ついていい。つづりを間違うくらいならcabbage(キャベツ)じゃなくてtomato(トマト)って書け」と教わったのを今でもひきずっている。なんでもわかりやすく書けばいーじゃんと思っていたが、こうして難しい漢字をみると文章全体に面白みが生まれますね。「海(うみ)」にルビが振ってあるのは、いわゆる魚が泳いでいる海じゃなくて、「硯(すずり)」の一部だと示すためかな? 

 あと世界観が面白い。中国の今はなき呉県を離郷した主人公・焦宝願が美大受験のために上京したり関西に戻って派遣の役所勤めしたりしている。なるほどね、作中では呉県が関西にあるんだ! ・・・という読み方はたぶん適切ではなくて、異なる事実が上手く重なったところに主人公がいるのだと思います。上から見ると昔の中国、横から見ると現代日本、みたいな感じじゃないでしょうか。小説ってこういうことできるから楽しいですよね。

◇私たちは目を入れるべきか

 焦宝願が生活を犠牲にしながら、なぜ絵を描くのか。その理由はいくつか示されています。

やがて白い画仙紙とまみえた時、ただ、描きたい、とだけ想う。

「竜を呑む」藤崎ほつま

「筆一本で大成すると自負だけを拠り所にして美大を受験し上京した」とあります。しかしなかなかうまくいかない。僧繇に師事するも冷遇されてしまう。それでも師が起こしたような「奇跡をこの手で成したい」と、絵の道にかじりついている。彼はお金持ちになりたいとか、有名になりたいわけではないんですね。

 私は、画竜点睛の逸話が語り継がれているのはギャラリーが多かったからだと思います。仕方なく竜に瞳を描き入れたら飛んで行ってしまった。この現場に自分しかいなかったら、誰も信じてくれないでしょう。だから人前で目を入れることが重要なんだと思う。でも焦宝願が求めているのは、他人からの評価ではない。

 ただ一点、睛を描き入れたらば完成とまで来て、震える息を整えつつ、おもむろにつ、とまなこに火を灯す。

「竜を呑む」藤崎ほつま

 自分の創作物の出来が良いのか悪いのか、目を描き入れることで判定できる。きっと確信を得たかったんだろうな。自分には才能がある。これまでの努力は無駄ではない。それが目に見えるかたちで示されれば、大きな希望になります。ところが・・・結果は作中の通りです。

 普通に考えれば描いた竜が実体化するだけで物凄い奇跡なんですけどね!! しかし焦宝願は起こった奇跡を喜ぶのではなく、竜の痛々しい姿に胸を打たれる。食べちゃうのはびっくりしました。二尺って60センチですよ。ちょっとしたぬいぐるみくらいのサイズ感です。

 でも、自分の創作物ってこういう働きをすることがありますね。久しぶりに読み返してみると(なんだよ、よくがんばってるし面白いじゃん)と思う。それは苦しみながら書いたからこそなんじゃないでしょうか。

 その苦しみも知らず、竜が飛び立った白紙だけ見て「これは凄い絵だ」なんて言うやつがいたらマジのバカですよ。画竜点睛を欠いた状態の絵を見ても「すげー!」と言える読者でありたい。描く側としては・・・絶対に目を入れて奇跡起こす!!と思うんですけどね・・・。

LIST68 「一年、経ったら」飯野文彦

「虹の橋を渡る」という言葉があります。
 ペットが亡くなった時に使う言い回しで、外国の詩が由来みたいですね。虹の橋の向こうには年中ぽかぽかと暖かい場所があります。ペットたちは仲間たちと楽しく遊び、飼い主が来るのを待っている。素敵なイメージです。

 天国というと、やはり虹の橋を渡ったところ=空のイメージがあります。雲の上なんだけど緑がいっぱいで水と食べ物もふんだんにある。ほのぼのした雰囲気の家はあるかもしれないがビルや銀行などはなさそう。

 で、本作の死後の世界にはなんと甲府駅がある。ということは電車が通っている。ヨドバシカメラや舞鶴城公園や小学校がある。なるほどね、と思いました。死後の世界は一種のパラレルワールドなのかもしれません。

◇「一年、経ったら」時系列

●大学のサークルでHとFが知り合う。
●夏休み、Fが甲府にあるHの実家に遊びに来る。Hの妹・瑞穂と出会い、遠距離恋愛を開始する。
●瑞穂、高校卒業。地元で就職する。
●Hの両親、事故死。
●一年後。FがHのもとに、瑞穂と結婚したいと挨拶に来る。
●半年後。瑞穂、事故死。(挙式前)
●通夜の晩、FがHに瑞穂と結婚したいと言い出す。Hは相手にしなかった。
●一年後、Fが自殺する。
●さらに一年後(今)、霊となったFが先に死んだ瑞穂と共に霊的な甲府を訪ね、両親に挨拶し、結ばれた。Hはそのことを仏壇に増えたFの写真から知る。


 長いスパンでものごとが起こっているので、時系列を整理しました。主軸になるのはHという男性ですね。彼の後輩がFで、妹が瑞穂です。名前を与えられているのは瑞穂だけですが、これはヒロインらしさを強調するためかと。あと彼女もイニシャル表記(M)だと話が混乱するだろう。

 時系列だけ見ればサスペンスやホラーとも受け取れそうですが、私は素直に恋愛ものとして読みました。いやもう、風景を眺める主体に背後から「ここだと思った」と声をかける女性はヒロイン以外のなにものでもないでしょう。このテンプレ感は好みが分かれそうと思いつつ、私は好きですね。わかりやすいし、王道とは先人が試行錯誤の末に見つけ出した最適解だと思っているからです。

 あと説明が上手でした。

 Fは大学時代所属していたサークルの、二期後輩だった。気があい、よくつるんで、飲みに行ったものだ。夏休み、甲府の実家にも遊びに来た。両親も健在で、そのとき高校生だった瑞穂と顔を合わせて……。
 遠距離交際を続けていたらしい。瑞穂は高校を卒業すると、地元の信用金庫に就職した。

「一年、経ったら」飯野文彦

 これ、よく短くまとめられたなと思いました。「顔を合わせて……」で改行して「遠距離交際を続けていたらしい」を持ってくるのはなかなか勇気がいるんじゃないでしょうか。妹を嫁にやった兄の感慨もこもっていますね。

 引用箇所のあと両親が亡くなり、一周忌が来て、Fが結婚の許しを求めに来る。内容的には怒涛の展開ですがスムーズに読めます。なぜか。Hの苦しんでいるさまが描かれないからです。

◇匿名の兄

 両親が亡くなって一年と半年後に妹が死ぬ。さらに一年後、後輩が自殺する。冗談抜きに、この立ち位置をリアルな自分ごととして読むことになったらきつすぎて泣いてしまうと思います。その点Hは偉くて、読者目線の脇役としてちゃんと説明をこなしている。

「来たんだよ、あいつ。いや、いる。あいつのことだ、先に寺へ行って、親父とおふくろに挨拶して、許しを得てから、ここに」

「一年、経ったら」飯野文彦

 Hのこのセリフがなかったら話の雰囲気がガラッと変わっていたと思います。だって客観的な事実としてみると怖いじゃないですか。誰も触っていないのに去年死んだFの写真が瑞穂の遺影の隣に飾ってある。Hの説明があるから読者のほうも話についていけます。

 とすると、冒頭がクライマックスということになる。甲府駅でFと瑞穂が再会する。その再会の意味をH目線で読み解いていく構成なわけです。

 しかし倫理的にどうなんだろう。いえ、私も生きているのが必ずしもいいこととは思わないけれど、Fが一年待ってから自殺したり、死後、自分の一周忌に瑞穂に会いに行ったりするのは、単に自分のこだわりを通しているだけであって、別に褒められたことでもなんでもない気がする。

 一年というのが、Fのあだ名だった。
――昔の人は、石の上にも三年なんて言いましたけど、現代、三年は長い。それでもせめて一年。何ごとも一年は待ったり、つづけたりしなければって思うんです。

「一年、経ったら」飯野文彦

 これはそもそも最低でも一年は耐えようという話じゃないのか。挙式間近な恋人を失った。もう自分も死んでしまいたい。それでも一年は生きようと思って耐える。しかし一年以上は耐えられなかった。・・・これならわかる。でもFの場合は、最初から一年刻みの計画を立てて行動していたように読める。それを初志貫徹したみたいに褒めたら、Fのまわりのひとがちょっと気の毒じゃないか。家族でもご近所さんでも同僚でも、知っているひとが自殺したらショックを受けるんだから。

 惚れた女と死後も添い遂げようとする心意気は確かに立派だ。瑞穂が「バカ」とか怒りつつ喜ぶのも理解できる。でもさ。じゃあ自分の一周忌とか待ってないでさっさと霊的な甲府に挨拶に行ったらええやないか。死んだあとのひとがすぐ自由に動けるのかどうかはわからないけどォ・・・。

LIST69 「逢魔」星野いのり

 うちの父はたまに「こういう話を書きなよ」と言います。自分で書いたらいい、と返すと「ま、そのうちにね・・・」と呟いて去る。なんなんだよと思ったので、夜プレバトを見ている時に話を聞きました。

 プレバトはわりと有名なテレビ番組です。芸能人が俳句や水彩画などのお題で作品を作り、先生が出来を見てビシバシと格付けする内容。

 ちょうど夏井いつき先生が俳句の添削をしている時、私は尋ねました。
「お父さん、こういうのを自分でやってみようと思わないの?」
「えー。俳句は難しそう」
「じゃ、絵手紙とか」
「もっと無理。絵は特別な才能がないとね」
「・・・!?」
「だったら小説のほうができそうだ。おまえはパソコンも使えるし、お父さんの考えた話を書いてくれよ」
 私は怒って自室に戻りました。なんて失礼な話だ。父がおかしいのか、このクソ田舎ではこの感覚が普通なのか・・・。

 しかしわかったことがあります。父は小説なら作れると思っている。俳句は難しくて無理。うん、プレバトの功罪ですね。特定の分野へのリスペクトは学べるが、視聴者は(あ、難しそう)と鑑賞者に留まってしまう。

 さて前置きが長くなりましたが本作はその俳句です。それも三十句連作。内容もバラエティーに富んでいてとても楽しく読みました。と同時に、この質・量の連作を作るために、どれだけの学びと努力が必要だったのかと思わずにはいられません。

◇「逢魔」概要

 私の独断と偏見に基づき、連作を1⃣~3⃣のパートに分けました。なお俳句作品に頭から①~㉚の番号を振って区別していますので、実際の作品を参照しつつ見ることをおすすめします。

1⃣地上から空へ
 ①~⑧がこの内容にあたると思います。まず①「鎧より花の香のする館かな」は、博物館かなにか、歴史的な鎧が置いてあるような「館」の中に主体はいます。窓が空いているのか、香りの強い花が室内にあるのか「鎧より花の香」がする。一句だけでみるなら(戦乱の世は遠くなったなあ)という感慨がありますね。しかしこれは「逢魔」という連作の冒頭なので、何やら奇妙で妖しいできごとの前触れの意味が強そうです。
 ②でさらに奇妙なことが起こります。目に見えるけれど鏡には映らない枝垂桜。室内から外へ出ましたね。続く③④⑤⑥で視点が空と鳥へ移り、⑦で雉が山の中を歩いている。
 続く⑧が劇的で、ここで鳥の題が明確に終わります。

2⃣逢魔
 ⑨~⑪ではこの世ならざるものがたくさん登場します。⑨天狗、⑬河童、⑮木霊、⑯閻王、⑱妖刀、⑲猿の神。句の雰囲気も1⃣と比較して暗く不気味ですね。
 1⃣では、姿は見えないけれど、花の香りはする、鳥の声はする・・・といった事象の不一致を取り上げていました。しかし⑧でその正体(の一部)であるはずのうみどりが死んでしまった。これは自然現象の正体が不明になったことを示していて、だから2⃣では⑨葉の擦れあう音に天狗を感じたり、⑬便所の水音が河童の声に聞こえたりするのかな、と。

3⃣日常に調和する妖かし
 ⑳~㉚でももちろん不思議なものたちが登場するんですが、2⃣に比べると雰囲気は明るく、日常に調和しているように感じます。
 ⑳「龍淵に潜む陶器のうすき罅」で、これは文字通り龍の棲む淵という雄大な景色を、陶器に入った罅として手元に置いている。さらに㉒で登場するのは、なんとオクラの神です。2⃣-⑲の猿の神とのギャップが物凄い。
 そこから㉓人間の心が生み出す軋轢㉕コロナ禍による陰謀論㉘妖かしを騙る業を取り上げている。逢魔というけれど、人間というのはどんな魔よりもえげつないという結論に帰結しようとする。
 しかし私たちは自然に畏敬の念を抱いてもいます。結句の「三十鎚の氷柱におほかみのけはひ」は、秩父の三十槌の氷柱という目に見える自然に「おほかみ」=大神の存在を感じ取っている。「けはひ」は冒頭の「花の香」に重なるところがありますね。私たちは今も不思議の中を生きている。

◇「逢魔」鑑賞

 完成度が高い連作なのでまだまだ深読みできそうですが、そこは読者各位に託すとして、私は私で好きな句を鑑賞することにします。

うみどりの死ははつなつのうみのもの

「逢魔」星野いのり

機機械械音音蜘蛛之囲之蜻蛉

「逢魔」星野いのり

 この対照的な二句が同じ連作の中にあるのがなんとも素敵ですね。番号でみると「うみどり~」は⑧、「機機械械~」は㉑です。少し距離がありますが字面的にも内容的にもお互いを意識しているように感じます。

 私は鳥の死骸を二度ほど見たことがあります。鳩と雀というどちらも街中で見かけるような野鳥です。それでも珍しい体験のように感じる、ということは「うみどり」の死骸が人目に触れることはもっと稀でしょう。
 文脈をみると①~⑦までの間に鳥は三羽出てきます。⑥の「鳴き続く」ものが鳥だとしたら四羽ですね。それがフッとこの句で死んでしまう。さらに「死ははつなつのうみのもの」ですから、主体はその死骸を所有できていません。ああ落ちた。死んじゃった。二重の喪失感を、かなに開かれた言葉の純粋さが綺麗に受け止めている。

 対して「機機械械~」は・・・まず、読み方は「キキカイカイ・オンオンクモノ・イノトンボ」でいいのかな。蜻蛉を捕まえた「蜘蛛」あるいは蜘蛛の巣を機械的な存在として捉えている。蜘蛛はもちろん虫なのですが、「逢魔」の世界に機械が登場してくるのは面白いですね。

 2⃣は妖かしに対抗して人間が出張ってくるパートだと私は捉えているので、自然を人工物に見立てているのかなと思った。メカメカしい蜘蛛に蜻蛉が捕まった、食われてしまう、という句ですが、「うみどり」に見えた思い入れとは真逆に感じます。なんならちょっと愉快がってそうじゃない?

 この取り合わせが人間だな、と思いました。善も悪もなくただ自然を見たままに解釈して表現する。もしかすると「逢魔」というのは自分自身を知ることなのかもしれません。


次回更新は5月31日の予定です。


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