ファイヤーレッド

冬のにおいがする。

伊織はかなり即物的な考え方をする方だから僕はそれを聞いてかなり驚いた。物理学科にいた彼女は感性的に物事を決めることを恐れ、何の決断においても論理的な証拠を必要とするタイプだった。

「へえ」
「でも、雪国とは違う、乾いたにおい」
「もっと湿っていた?」
「もっと、温もりがあった」
「寒いけど」
「温もり」
「温もり」

すでに東京の電車は酒臭く、異様なほど熱せられた空気を運ぶ乗り物になってしまう時間だったので、という理由で電車に乗ることも、タクシーを拾うことも断った伊織の右側を歩きながら、彼女の言う、温もりのことを考えていた。

凍てつくような風が吹いて、コートの前を閉めていなければいけなかった。時折商業施設の前を通ると、生暖かい暖房が漏れ出てきて僕は少しだけホッとした。伊織はその度に道を変えましょう、とできるだけ人並みの無い方へと進んで行った。僕は会話の間、実家の隣に住んでいた男の子のことを考えていた。僕の一つ年上だった彼は、(もちろん今も彼は僕の一個上であるはずだが、今の僕よりも年上の彼を見たことがないし、想像もつかない)同じく僕の一つ年上の、僕の実家の反対側の隣家に住んでいる男の子と仲良くしていた。なぜか、(本当になぜだろう?)僕の家を使って二人でポケモンをしていて、そのゲームボーイを持っていなかった僕は一人で本を読んだりしていた。いつ帰ってくれるのか、と思いながら、彼らの笑い声は確かに少し、羨ましかった。小学校に上がり、少しだけ多くもらえるようになったお年玉を貯めてゲームボーイをかった頃には小学校2年生の彼らは別のカードゲームに夢中になっていた。温もり?

大通りを外れ、線路からもずいぶん離れてしまった。ぎゅうぎゅうに詰め込まれたマンションと、50年以上前に建てられたであろう民家が並んでいて、スケボーに乗る若い男が僕を追い越して行った。

「冬のにおいって」伊織が追い越して行った彼の方を見つめながらまた口を開いた。今日はいつもと違って随分饒舌だな、と思った。「寒さを感じるのが触覚よりも嗅覚の方が早いから感じるんだって」
「へえ、においじゃないってこと?」
「でもこれははっきりとにおい」
「冬のにおいがする?」
「ええ」
「どこに向かっているの?」
「そんなこと、聞かないで」

遠くには、飛行機にビルの高さを伝える航空障害灯がもうぼやけて見え、歩いて移動するには随分きてしまったことを教えていた。今度は向かいからさっきのスケボーの男がぞろぞろと数人を連れてやってきた。妙に薄着な彼らは、揃ってiQOSの香りを漂わせており、全員黒っぽいズボンを履いていた。
彼らとすれ違いながら伊織は何かを小さく呟き、それからマスクをぐいと鼻まで上げなおした。

「都会と田舎、どっちが温かい?」僕は気になって聞いてみた。長野出身の伊織は雪深い土地で育ち、東京の最低気温のニュースが流れるといつも少しからかうようなことを言った。
「冬のにおいが台無しじゃない」
「iQOSのにおいは、東京のにおいだよ。彼らは、そうして彼らのにおいを作るんだよ」
「誰のにおいもないところに行きたい」
「僕もだ」

それから僕は、どこかへこのまま行ってしまおうかと提案したが、しきりに時計を気にする仕草で断られてしまった。僕も時計が気になり始めたが、見るわけにはいかなかった。今は、何時なんだろう?
車の音が少しずつ大きくなり、大きな通りに出た。通り沿いには地下鉄の駅の表示があって、彼女の家のもうすぐ近くまで来ていることを知った。
近くのケーキ屋の店主は片付けを終え、店じまいをしながら鼻歌を歌っていた。ケーキ屋のイメージとはかけ離れたかなり小柄な若い男だったので、彼の生い立ちが気になった。どうして、そしてどのようにしてケーキ屋になったのだろう?明日は何時に起きるのだろう?この後、何をするのだろう?

「じゃ、もうここでいいよ」今日は伊織から口を開くことが多い。珍しい日だった。
「そう、気をつけてね」
「家は、居心地があまりよくないんだ」
「どうして?」
「どうしてかな」
「じゃ、また」
「うん、またね」

家に帰る途中、近所が火事で大騒ぎしていることを知った。野次馬をかき分けて見ると、家から15メートルほどの家がパチパチと音を立てて炎上していた。航空障害灯の下でこんな風に炎が上がっていたことにも、僕は気づかなかった。翌日、火事を終えた街は、火事を終えた街のにおいで満ちていた。燃え尽きた民家では、人が二人亡くなったそうだ。

僕はそのことを、三日後に活字で知った。

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