I was born

 ある事情があって新幹線で東京へ向かっていた。5時間半の長い旅路だったが、途中、3人が私の隣に座った。いずれも間違えて座り、途中で別の席へと去っていった。目的地に着く前に、別の席に(それも3人とも2席前に)車掌に促されて座り直した。

 一人目は、私と同じ程度の年齢の若い男で、私と比べると少しだけ肩幅が大きかった。読書をしていた私は少しだけ窓側に自分の体を追いやって、開いていた脚を少しだけ締めた。彼は、自分のスマートフォンを横に持って、AirPodsを耳にはめ、画面の上の方から落ちてくる丸いアイコンをリズムに合わせてタップするゲームをしていた。その音量が大きいのか、列車の騒音にかき消されなかった、シャカシャカという高音だけが私の耳に届き、それは私の後方に座っていた白髪の男性にも聞こえていたようで、温厚そうな男性は少しだけ怒ったような口調で、彼に、音量を下げるよう伝えていた。
 それから彼はゲームに飽きたようで、スマートフォンをポケットに片付け、車内販売で油っぽいお菓子を頼み、足元の大きなリュックサックから小さなワインの瓶を出してそのまま飲み始めた。すでに夕日の時刻ではあったが、彼の頬はすぐに紅潮しているように見えた。夕日が照っていたからか、車内販売の女性があまりに美しかったからか、それは知れない。

 そして、二駅ほど彼は私の隣で真っ赤なワインを飲み、外の風景が二度、山と街を交互に繰り返した後で、車掌に声をかけられ、いそいそと荷物を全てリュックサックへ詰め、私の2席前へ移動していった。

「切符を拝見しても? 」
「ええ。あっ」
「あちらですね」
「すみません」

 彼はそれからイヤホンをしたままの耳で私にもすみませんと言って、少しだけ頭を下げ、去っていった。席を間違えた人を見つけてアイコンをタップするゲームがあったらぜひプレイしてみたいと思った。

 一人目の席を間違えた男が去ってすぐ、(それは本当にすぐ、息をつく暇もなかった)二人目がやってきた。

「失礼」

 と穏やかそうな声で、眼球の動きで覗くと大柄な女性が腰掛けた。声に反して、香水の匂いは穏やかではなく、あまりにつけすぎているという感じで、私は少したじろいだ。また、窓側へ体を追いやると、対向の線路を新幹線がすれ違い、車体がずん、と揺れたので私は驚いて体がびくりとした。

 女は何をするわけでもなく、少しだけ私の方を右目で見ながら、時折髪をかき分け、その度に首元につけた(つけすぎた)香水の香りがした。彼女が降りない限り、私はここから出ることは愚か、この香りから逃れることすらできないのだと思うとぞっとしない気分になった。少しずつ日が暮れかけていて、もうカーテンを閉めている必要はなかった。移る景色の中で、前方から車掌がやってきた。探るような目で彼は全ての席を確認しながら、手元の機械をいじっていた。後ろから先程の美しい車内販売も追いかけてきていた。

 「失礼ですが、切符を拝見しても? 」
 「ええ、もちろん、どうぞ」穏やかな声で女は答えた。
 「お席はもう少しあちらですね」
 「あら、失敬」

 女は、さっきの駅で男が降りたばかりの、私の二席前の席に座った。その窓際には親子連れ(まだずいぶん小さな子供だ)が座っていて、彼女が腰掛けた途端に火が着いたように泣き出してしまった。気の毒なことだと思った。私が泣き出さなくて良かったと感謝して欲しいくらいだったけれども。

 3人目? 3人目の席を間違えた女は、妊婦で、もうそれ以上先へ歩くことはできないというので、そこに座って居たので、誰も何も言うことはなかった。たった、あと2席先だったが、彼女はもう歩くことは出来ないと言うのだ。そんな切羽詰まった妊婦が300km超の速さで移動して良いものか、私にはわからなかったが、日が暮れて鏡のようになったガラスに映る妊婦の表情は、あまりにも優しく、穏やかで、そして何者にもこの座席を譲らないという強かさを湛えているのだった。車掌は彼女に切符を求めることはしなかった。代わりに、私に切符を求め、私の場所が正しいことを認めた。私の座っている場所は初めからここで正しいのだった。ただ、となりに強かな妊婦が座っていることを除いては、全て正しいのだった。電車が進むのと同じ速度で夜が更けていくのは不思議な気持ちだった。前の駅に赤ん坊が取り残されはしないだろうか。

 私は心の中で隣の席に座っている、まだ言葉も話せない赤ん坊に尋ねてみた。
 「ねえ、切符を見せてもらってもいいかな? 」

 彼の手の中にひしと握りしめられたその切符には、まだ何の行き先も、正しい座席番号も記されては居ないというのに。私は彼の小さな小さな手の下に手のひらを開いて置き、彼がその手を開いてくれることを祈った。どうか、彼が列車に乗ってしまわないように、どうか、彼が彼自身の意志で300kmで進むことを躊躇ってくれるように。

 隣の席に座っている妊婦は、カバンの中に入っていた、何が入っているかよくわからない、ピンク色のポーチを取り出して、私の頭を真後ろから殴りつけた。

「あら、失礼」

 と苦しそうな声で言って、這うように2つ前の座席に移動した。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?