久しぶり、猫の詩

 化粧室を示す青と赤の看板に従って猫は右へ左へと進んでいく、道は暖かく柔らかな日向へと続いていて、人々はそこへ立ち入ることができない。透明な透明な、そして柔和な、膜、幕が漠然と、その素敵な場所を包み込んでいて、私の可愛い猫だけがそこへいくことができる。

 今日は何が食べたいの?

夕焼けの赤と、名残惜しそうなブルーの空が混じり合って私はスーパーボールの中、スノードームの中の粉雪みたいにポーンと跳ねる、猫は私の方を見て、咳は止まったかいと笑いかける、桃の香りは昔みたいに私を包んではくれない、代わりに私の周りにあるのは甘ったるい柔軟剤といつかの恋人がくれた高い香水の混じり合った、不安定な香りだけだ。

 猫は歩いていく、ずん、ずんずん、彼は迷いを知らない、ついてこいと言いついていくけれども私はそこには入れない。捨ててしまった花柄のワンピース、厭らしく赤いバラの棘、夕焼けがブルーを追いやって、やおら夜がやってくる、私は詩人ではないから、気ままに詠ずるわけにはいかないのだ、ツケ、は払わなくてはいけない。猫は、歩いていく。

 ウィンナーコーヒーの気分さ。

私はお茶の気分だわ。猫は、それならジャスミン茶にしようと言う、お茶なんかしている場合なの?と尋ねると彼は、そこへいくのはいつだって構わないというのだ。ねえ、猫が喋るなんて、物語の世界だけよ?現実の世界ではそんなの、ありえないわ。ここが本当に、現実の世界かどうかなんて、誰にわかる?

 化粧室の看板はだんだん大きくなる、右に行けば喫煙所です、トイレは左側、男性用が左で、女性用はその奥、右に行くと、多目的トイレがある。トイレに目的は一つであろう。ウィンナーコーヒーはもういいの?ああ、ジャスミン茶が飲みたいね。ねえ、もう少しゆっくり歩いてよ。

 私は詩人ではないから、ツケは払わなければならない。私は詩人ではない、私は詩人ではない、私は詩人ではない、着信はない、アルコールもない、手の震えは?バラの花は?割れた瓶はブルー、ブルー。雨も降り始めた、猫はまだ、歩いていく、ずん、ずん、ずんずん。ねえ、まだ速いわ。

 君が二本足なんかで歩いてるから速く感じるんだ、僕みたいに歩いてごらん。

 さあ、覚悟は決まったか?とトイレの内側から声が響く、その奥に、暖かな日向があることを私は知っている、西池袋のガード下、階段を上ると、ひどく軽薄な、しかし柔らかな膜があって、私はああ帰ってきたのだなと思う。ここが現実の世界だ、煙草には火がつくし、空は青い、猫は話すのをやめる。私は覚悟を決めた、私は覚悟を決めた。私は詩人だ。

 ねえ、みんなどうしてそんなにゆっくり歩いているの?

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