慣性アレルギー

 泥棒は言った。
 「ものが足りない人からものを盗んじゃいけない。金が足りない人から金を盗むのもだめだ、そして心がない人から、彼らからは何一つ盗めやしない」
 どうして彼が泥棒と呼ばれているか? それは彼がとても多くの人々から、とても多くのものを盗んできたからに他ならない。最初から大仕事だった。彼の最初の仕事は、政治家の重要書類だった。無論、彼にとって盗みを働くのは初めてのことだったし、それが法律や倫理的に禁じられていることもよく理解していた。それでも彼はそれに従うしかなかった。妹を人質に取られていたのだ。彼は妹のために政治家の書類を盗み出した。紙切れ一枚、泥棒は、なんだ、こんなもの。と思ったけれどもその時その重要な紙切れ一枚は彼の妹を悲劇から救い出し、反対に平和な日常を送っていた罪なき多くの人を不安のどん底に陥れた。それ以来彼はたくさんの仕事をこなした。国家を揺るがすような大きな仕事から、ほんの歯ブラシ一本のような些細な仕事まで。泥棒を頼る人種というのがこんなにたくさんいるものかと、彼は驚いた。そして彼はいつの間にか出会う誰しもから、泥棒と呼ばれるようになった。
 「心ってなんだい? 」泥棒に尋ねると彼は少しだけ眉を歪ませながら答えた。
 「守るべきもののことさ」
 「君にとっての妹のような? 」
 「もっと重要な何かだ、妹を守りたいと思うことだ、俺は妹を救うために必死になった、それが心だ」
 しかし彼が守り抜いた彼の妹はその後すぐに自殺してしまった。その時泥棒は、彼女が飛び降りたビルの最上階に忍び込み、ある印鑑を押しているところだった。彼女は泥棒のまさにその上で、自らの命を絶つ決断をしたのだった。
 どうしてか? それは泥棒本人に聞いてみるほかあるまい。泥棒の妹はもはや、一言だって言葉を話せない身体になってしまったのだから。彼女の声に耳を傾けるためには、まずはその兄、泥棒の声に耳を傾けなければならないだろう。泥棒にとって最も辛いことには、彼女の声だけは盗み返すことができないということだった。
「俺が不甲斐なかったからだ、彼女の辛さに気づいてやれなかった」
「そんなことを聞いているんじゃないよ、どうして・彼女が・死んでしまったかを聞いているんだ」
「妹は、高層ビルの高いところから地面に叩きつけられて、死んだ」
「君はその時に彼女を守ってやれなかった? 」
「仕事をしていたんだ」
「気づかなかった?」
「いや」
「いや? 」
「気づかなかったよ」
「そうか」
「心のない人間からは何も盗めやしない」
「ああ、君のいう通りみたいだ、君からは何も盗め出せそうにない」
泥棒は立ち上がって、彼に小さくお辞儀をした。ネクタイが少し曲がっていたし、上下別のスーツを着ていたので、服の高価さとは裏腹にとてもみすぼらしいような印象を与えた。とはいえ、同様に高価なスーツに身を包んだ彼もまた、口元のいやらしい笑みが彼を幾分みすぼらしくしていた。人は彼のことを彼の親が名付けた名前で呼んだ。人は泥棒のことを、泥棒と呼んだ。
 彼はこっそりと泥棒の後をつけていった。泥棒は妹の墓を丹念に磨き、両手を合わせ、少しだけ潤んだ目を閉じた。

 男は泥棒の後ろから忍び寄り、彼女の墓の前で、彼を撲殺した。いつも通りのことだった。最も大切なものを思いながら死ぬことは最も美しいのだった。彼自身、最も美しい死を眺めながら死ぬことができたらどんなにかと思うものだった。泥棒は合掌したまま妹の墓に突っ伏して死んだ。さながら彼女の墓に向かって礼拝をする教徒のようだった。
 男は泥棒の死体を踏みつけながら言った。
「君は一つだけ間違っている。ものを持っていない人をもので殺してはいけない。金が足りない人を金で殺してはいけない。そして、心がない人間を生かしてはいけない。肝に銘じておくといい」
 男は涙を流し、拳を握りしめた。震えていた。

「美しい。しかし、誰がこんなことを? 」
男の目は潤み、視界はぼんやりとしていた。彼が殺した泥棒の死体はこんなに美しいというのに。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?