元気な自殺志願者
今日も死ねなかった。
私はため息をついて立ち上がった。
救護ロボットはいつものように私の傷口を治すとさっさと巡回に戻る。私はそれを恨めしく眺めてから、とぼとぼと帰路についた。
西暦3056年、人類寿命管理計画が本格的に実装された。
生まれた時点でそれぞれ寿命を政府から決定、配布される。そして、それにあらがうことは決してできない。私の寿命は98歳だった。それが、赤ん坊の時点で決まっていた。父も母も同じく100歳近い寿命であり、健康優良児であった私の寿命としては妥当である。
これ以上生きることはできず、所定の年齢、所定の時間になれば安楽死することとなる。
逆に、途中で人生をやめることもできない。
寿命が訪れるまでに自分の意志で自分を傷つけようとしても赤ん坊の時に体内に内蔵されたICチップですぐにばれて、街を巡回している救護ロボットや防犯ロボットに邪魔されてしまう。
乗り物に轢かれようとしても同様だ。すべて自動制御運転のため、私のICチップを認識したら決して私を跳ね飛ばすことはない。
完璧な監視体制の中で、私たちは生かされている。
私にはそれがどうしても耐え難いことだった。
皆、寿命が決まっていることを喜んでいる、ありがたがっている。
ここ数年でライフプランナーが人気の職種に躍り出た。生まれてから死ぬまで、人生設計を一緒に考えるという職業は、寿命が決まっている人々にとって非常に助かるらしい。
私は、予定調和の人生にあらがいたい。
その唯一の方法が、私にとっては自ら死を選ぶことであった。
寿命が決まっている中で『生かされている』なんて、心臓が動いているだけで、死んでいるのと同じだ。
魂が死んでいるのとまったく同じことだ。
どうしたら死ねるんだろう、と毎日毎日、思案する。
今日もまた、死に方を考えながら眠りにつく。
自分が死ぬ方法を考えている時、何よりも私は生き生きして、自身の生を実感することができるのだ。
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