9. 臨床を離れたら、きっとわからなくなることⅡ〜誰が悪くなくても悲しいことは起きる
救命できなかった若い女性
私がまだ20代の頃、内科病棟でオオムラさん(仮名)という、21歳の女性の死を見送りました。幼い頃両親が離婚し、母親が女手ひとつで育てられたとのこと。きょうだいはなく、そばに付き添うのは母親ひとりでした。
母親曰く、オオムラさんは、短大を卒業して就職し、毎日が本当に楽しくてたまらない。そんな日々を送っていたそうです。
そんなある日、オオムラさんは、突然40度以上の高熱が出てしまいます。症状は頭痛程度。ちょうど仕事が忙しく、2日間は解熱剤を飲んで出勤しましたが、さすがに具合が悪く、3日目に仕事を休み、近所のクリニックにかかりました。
この時診察した医師は、ただ事でない高熱を重く見て、すぐに大きな病院に行くよう説明。母親も付き添い、外来で診察を受けると、即入院になったのです。
外来からついてきた診断名は、「髄膜炎疑い」。病棟ですぐに脊髄穿刺が行われ、髄液の中に細菌やウイルスがいるかが調べられました。ところがこの時点で、はっきりした原因がわかりません。
何しろ今から三十数年前の話。いろいろな限界がありました。しかし、今思い返しても、感染症疑いであそこまで下がらない高熱というのは、本当に珍しい……。
髄膜炎という診断で本当によかったのか。今となっては、そこから確信が持てません。
集中治療室は消毒中
オオムラさんは、残念なことに、病状が全く好転せず、日を追って悪くなりました。完治が望めるはずの急性疾患で、穏やかな看取りがゴールになる状況ではありません。
何がなんでも助けなければならない。内科病棟から集中治療室への転室が急務だと、誰もが思いました。
ところが、転室が決まったタイミングで、集中治療室が数日クローズになってしまったのです。理由は、入院中の患者が感染力の強い感染症だとわかったから。あまりの不運に、同僚と共に呆然としました。
しかし、落胆している間はありません。いざという時、集中治療室と遜色ない処置が行えるよう、環境を整えることにしました。
具体的には、重症者が入る大部屋にいたオオムラさんを、個室に転室。呼吸状態が悪くなったらすぐに人工呼吸器がつけられるよう、あらかじめ準備を進めたのです。
転室の時点で、オオムラさんの意識はかなり低下。呼びかけても返事がなく、刺激を与えると手で跳ね除けようとする程度でした。
やがては呼吸も不安定になり、このまま改善するとは思えません。ならば、医師や看護師がたくさんいる日中のうちに、必要な処置を行いたい……。
そして、付き添っている母親に承諾を取った上で、気管内挿管を行い、人工呼吸器が装着されました。
そしてついに心肺蘇生
その後もオオムラさんの熱は下がる気配がありません。効果のあった解熱剤の効果さえ薄れ、さらなる脳へのダメージが懸念されました。
かくなる上は、体を物理的に冷やすしかない。そう考えた私たちは、ベッドにクールマットを敷き、全身を氷枕で冷やし続けました。
ナースステーションに戻り、製氷機の前で氷枕を作っていた時の、あの祈る気持ち。今もあの時を思うと、氷枕のゴムの臭い、少し錆びた口金の軋む音と共に、なんともやりきれない気持ちが思い出されます。
そして、呼吸器を付けてから数日後の夜、オオムラさんは急激に血圧が低下。やがて心臓の鼓動も弱くなり、心臓マッサージや強心剤の投与など、最後の手段が講じられました。
私はこの日夜勤で、緊急時の対応にめっぽう強い同期の看護師と一緒の勤務でした。心肺蘇生が始まると、彼女がテキパキと動きます。
私はどちらかといえば、こうした場面で、昔から今ひとつ動きが鈍い方。その場の仕切りは彼女に任せ、もう1人の看護師とともに(当時夜勤は3人体制)、記録や外回り、他の患者の対応を協力して行いました。
ちなみに、こうした役割分担は、決めるというより、なんとなく決まるものでした。当時働いていた病棟は、本当に忙しかった。それでも、のっぴきならない場面でも、みんなが持ち味を発揮して、力を尽くす。そんな働きやすい病棟だったのです。
ボスミンの大量投与
個室に移ってからは、母親がずっとオオムラさんに付き添い、この日も同様でした。個室のソファーベッドに横になる姿は疲労の色が濃く、なるべく起こさぬよう、私たちも気を使いました。
それでも、夜22時時頃から蘇生が始まると、個室の中は集まった医療者で騒然とします。母親は「助けてください」「死なせないで」と度々絶叫。過呼吸のようになり、看護師が付き添う場面もありました。
この時、少しでも心臓を動かそうと、強心剤のボスミンが大量投与を開始しました。通常ボスミンは、1mlの薬液を1、2本使うのがせいぜいなんですよね。
ところが、この日は50ccの注射器に吸って、ポンプで注入。すでに200本程度使っていました。
当直の薬剤師によれば、もう薬品庫に在庫がなく、必要ならば各病棟から集めてくるとのこと。そのようにお願いしつつ、やがて効果がなくなるのはわかってもいて、本当に辛い時間でした。
それでも、持続的にボスミンが注入されるようになって、一時的に心拍が再開。その場にいた全員が息をつきました。
壮絶なシーツ交換
そして1時を回る頃、突然ただならぬ臭気が病室に満ちました。大量の便失禁です。それは、全身の弛緩を意味するようでもあり、決して良い兆候ではないでしょう。
心拍はどうにか維持できていますが、いつ止まるかわかりません。体を動かすのはリスクが高いのはもちろんですが、このまま便まみれではあんまりです。
「なんとかしたいね」「なんとかしよう」。夜勤者3人の気持ちは固まりました。
その場に残っている医師にも協力してもらい、なんとか便で汚れたシーツやオムツを外し、新しいものに交換。汚れ物は大きなビニール袋に入れてトイレに置きました。
ところがこの直後に、母親が「お守りがない!」と絶叫。彼女の手に握らせていたお守りがないと言うのです。
おそらくはあの汚れ物の中……。なぜかそこにいる皆が、私の顔を見ます。確かに片付けたのは私ですから。これはやむなし。
「ちょっと見てきます」。
トイレの汚れ物の袋を開け、大きなトングでシーツとオムツをかき分けました。この時はもう、臭いなんてお構いなし。とにかく見つけなくちゃとの気持ちで必死に探し、とうとうお守り袋を発見したのです。
ただし、すぐに渡せる状態ではありません。便にまみれたお守りを水で流し、ペーパータオルで拭き、臭いが漏れないよう、ビニール袋に入れて、病室へ。
「ありましたよ!」と言うと、その場にいたみんなが「よかった」と大歓声。母親も涙ながらに喜び、私の手を握って、何度も「ありがとう」といってくれたのです。
ものすごく悲しい思い出の中で、唯一母親の笑顔を見た瞬間でした。この場面を思い出す時が、一番泣けてしまいます。
夜が明けるまで頑張ろう
そして3時頃、ついにボスミンも効かなくなり、心臓の鼓動は停止しました。母親は絶叫、看護師2名と医師で心臓マッサージを再開します。
私も交代で心臓マッサージをしながら、これは一体いつまで続ければ良いのか。本当に先が見えない気持ちでいっぱいでした。
母親が納得の上蘇生をやめるなんて、あり得ない。かといって、永遠にこのまま心臓を押し続けるわけにもいかない。いつかは終わるんだろうけど、それがいったいいつなのか。
窓から見える、暗くなりきれない都心の空を見ながら、ああ、早く日が昇ってほしい。明るくなれば、なんとかなるんじゃないか……。そんなことを考えていました。
季節は盛夏。5時前には空が明るくなります。あと2時間。あと1時間。時間が経つうち、母親も泣き疲れたのか、ソファーに腰を下ろし、無言で座っています。
夜通し治療にあたった主治医は、母親に声をかけました。
「お母さん、本当に残念です。助けることができませんでした。もう、これ以上続けても、お嬢さんが生き返ることはありません」
母親は、「ありがとうございました」とはっきりした口調でいい、娘の顔を撫でながら、何度も何度も、「がんばったね。お母さんのためにがんばってくれたね。ありがとう」と娘をねぎらいました。
振り返って思うこと
オオムラさんが亡くなってしばらくの間、私はもう少し何か手立てがあったのではないかと、くよくよ考えました。当時考えたのは、以下のようなことです。
1つ目は、診断がもっときちんとつかなかったのか。
2つ目は、集中治療室の感染対策が不十分だったのではないか。
3つ目は、主治医が若く、経験不足だったのではないか。
けれども、かなり早い時期から、これは難しいとすぐにわかりました。
まず、診断について。
細菌と比べて極小のウイルスは、培養によってウイルス本体を確定することができません。例えば、私が働き出した1987年は、輸血後に多くみられた肝炎が非A非B型肝炎と呼ばれており、これがC型肝炎ウイルスによるものと判明したのは1988年。その後検査が実用化されたのは、もう少し日を待たねばなりませんでした。
細菌が検出されなかった以上、ウイルスによる髄膜炎を疑うのは当然で、そこに齟齬はなかったと思うのですね。診断がつかなかったことは、やむを得なかったと言うほかありません。
次に、集中治療室について。
そもそも急患で受けた患者さんが感染性の強い感染症だったというのが事の発端でしたが、すでに呼吸停止に近い状況だったため、すぐに集中治療室に入ったと聞きます。
その状況で、めったにない感染症の検査までしてから受け入れろというのは、非現実的。対応に非はなかったと考えました。
最後に、主治医について。
主治医は若い男性で、2年目の研修医。けれども、指導の医師がきちんとついて適切なアドバイスをしていました。経過の中で、母親が主治医について不満を漏らすのを聞いた看護師はいません。
主治医自身は、究明できなかった事実に責任を感じ、繰り返し嘆いていました。しかし、この転帰を、主治医の責任に帰すのは無理だというのが、私の考えでした。
結局誰も悪くない
一方、母親は経過中、娘が熱を押して働きに行くのを止めなかった自分を責め、何度も泣いていました。気持ちはわかります。私が母親の立場でも、そう思ったことでしょう。
「私たちだって、熱で簡単に休む気持ちにはならないし、実際解熱剤使って出勤するなんて、ざらにあります。それでも普通は大ごとにはなりません。お母さまのせいではありませんよ」
私たち看護師は、こんな風に話して、母親を慰めていました。
皆それぞれにベストを尽くしても、あのような結果だったのだと思うと、やりきれない気持ちが募ります。
しかし、結局の所、オオムラさんの経過は、誰か特定の人の落ち度にはできない。これが私の結論でした。結局誰も悪くない……。
そして、誰が悪くなくても悲しいことが起こる。それが臨床なのです。
そしてこれは、必死にみんなで手を尽くしたからこそ、認められる自分の無力。臨床にいるからこそ、行き着ける感覚だと考えます。
その後、一人娘を見送った母親は、どう生きたのでしょうか。ご健在ならもう80代。今も最初に思い出すのは、お守りが見つかった時、泣きながら見せた笑顔です。