見出し画像

5.いつもじゃないけど、看護は自分との闘いⅠ〜積年の恨みに行き当たる

看護は自分と向き合う機会でもある
看護は患者さんあってこその看護であり、常に患者さんが中心であってほしいと思います。なかなか理想通りには行きませんが、この基本は忘れたくないものです。
一方で、看護は自分自身の感情や信念、こだわりを再発見する、自分と向き合う機会でもあります。そして、その感情や信念が、目の前にいる患者さんを受け入れがたくしてしまう。そんな困難に直面することがあります。
自分をなだめすかし、自分の限界を乗り越えながら行う看護は、さながら自分との闘い。今回は、そんな自分との闘いを初めて強く意識した関わりについて書いていこうと思います。

いつも怒鳴っているイグチさん
今から30年近く前、私は30代前半。9年間働いた内科病棟から精神科病棟に異動になって、少し経った時期でした。
当時、いつも怒って看護師を怒鳴っている70代後半の男性がいて、看護師は皆扱いに困っていました。彼の名前はイグチさん。病棟には常に彼の怒声が響いていました。
「お〜い、お〜い。背中が痒いんだよ。来て来て。早く掻け。死んじまうよ〜」
「お〜い、お〜い。まだか〜。お〜い。どんだけ待たせるんだ〜」
「お〜〜〜い。帰るぞ〜。お〜い。靴を履かせろ~」
いつもは穏やかな対応を心がけている私たちも、余りにも怒声が続くと、ついつい声のボリュームもアップ。
「イグチさん、そんなに怒鳴らなくても聞こえます!」
「イグチさん、静かにしてください!」
看護師の声もうるさい、と辛辣な患者さんから注意される始末でした。
イグチさんは20代前半発症の双極性障害。年を重ねて気分の波はかなり落ち着いてきたものの、アルコールの問題もあり、キャラクター的にもクセのある人でした。
ともに暮らしていた両親はすでに亡く、支援者は近所に住む兄と妹。医師の記録には、元から人嫌いで引きこもりがちであったところに、加齢による認知力の低下も見られ、感情の抑制が効かなくなっているとありました。
以下は、入院時付き添ってきた妹の言葉。
「若い頃は躁うつ病で、躁状態の時に爆発的に怒っていました。今は年をとって躁状態になる元気はないようです。その代わり、グジグジと常に怒っています。お酒を飲むとなおひどいです。なんであんなにトイレを汚すのか。掃除する身にもなってほしい。本当に情けなくてなりません。入院して治るかはわかりませんが、このまま家に置くのはあまりにも大変です。長くいられない病院だというのはわかっています。2週間でも1ヶ月でも、時間がほしい。兄と私で施設を探し、なんとか入れたいと思っています」
実際にイグチさんと関わってみると、記録に残る妹の言葉が、とても納得できました。

「おい」と呼ぶな
イグチさんは、常に命令形で話し、看護師にあれこれしてほしいことを命じます。呼びかけはいつも「おい」。私はその呼ばれ方が大嫌いでした。
ある時「イグチさん、お願いですから、『おい』と呼ぶのはやめていただけませんか」と頼んでみました。するとイグチさんは、明らかに聞こえぬふり。しばらくしてまた「おい」と呼ばれたのです。
今ならしつこく、同じお願いを繰り返すでしょう。けれども、若かった私は、それ以上何も言えなくなりました。お願いを繰り返して無視されたら、それもまた傷つくので。ならば聞こえなかったことにして、何も期待しないのが得策だと思ったのです。
たくさん職員がいることを思えば、ひとりひとりを名前で呼べとは言いません。だから、「ねえ」でも、「すいません」でも「おねがいします」でもいい。「看護師さん」でもか、あわない。ただ、「おい」はやめてほしい……。
「おい」と呼ばれて返事をしながら、私の気持ちのなかには、イグチさんへのネガティブな感情がどんどん大きくなっていました。

闘いのゴングが鳴った時
イグチさんは、入院時からあった怒りっぽさが強くなったため、ごく軽い鎮静効果のある薬が処方になりました。しばらく続けて落ち着いてきたのですが、飲み始めは足下のふらつきが強く、一過的に状態が悪化しました。
その際問題になったのが、トイレの汚染。妹さんの言葉がよくわかりました。ふらついた足で立ったまま排尿をするため、尿が周囲にまき散らされてしまうのです。
そしてある夜、ついに事件が起きました。夜勤に入った私は、ベッドから転げ落ちそうになっているイグチさんを発見。「ションベンだよ、おい。ションベンだって言ってんだろ」と言って歩き出そうとしますが、廊下にしゃがみ込み、立ち上がれません。
そのため、洋式便器に座って用を足せる車椅子用のトイレにお連れし、介助して座らせようとしました。すると、イグチさんは顔を真っ赤にして激怒。大声でこう言ったのです。
「馬鹿野郎。おい、おまえ、俺を座らせようって言うのか。俺は男だ。女みたいな座りションベンなんて、できるわけないだろう。ふざけるな。トイレに連れて行け、男のトイレに連れて行け。あそこなら立ってできるんだ」
この言葉を聞いた瞬間、私の頭の中で、闘いのゴングが鳴りました。
以下は、私の感じたことを素直に書きます。不愉快になったらごめんなさい。今もし同じことが起きても、今度はもう少し早く自分をなだめられる。その前提で書いています。
正直言って私は、怒りで身体が震えました。イグチさんの言葉は、ひとつひとつかんに障ります。私は頭の中で思いっきりこう言っていました。
<自分で身動きできないから、車椅子でトイレに連れてきてあげたのでしょう。おまけに、自分で立つこともできないのに、立ち小便にこだわるとはどういうことだ。馬鹿野郎とは誰のことだ。おまえのことだ>。
そして、自分の気持ちをなんとか抑えながら、「お気持ちはわかりますが、それだけ足がよろよろしていては無理です。夜は眠剤も効いていているのでしょう。夜の間は座ってお小水をしてください。日中歩けるようになったら、いつもの男性トイレへ行きましょう」。
そして、少し強引に便器に座らせると、イグチさんはふらつきながら無理やり立ち上がり、手すりを握って私に命令しました。「おい、持て。立ってるから、ちんちんを持て」。
とにかくその時点で私は、ここまで感じたことがないほどの怒りを感じていました。まさに「満腔の怒り」。なぜ私がこの男のちんちんを持ってまで、立ち小便をさせなければいけないのか………..。
私は怒りを必死に押さえながら、彼ともみ合い、最終的には彼は私に向かって排尿し、ふたりとも尿まみれ。勝者のない闘いだったと言うほかありません。

立ち小便というマッチョイズム
今も私は、あの時イグチさんが私に投げつけた言葉を思い出せます。
「馬鹿野郎。おい、おまえ、俺を座らせようって言うのか。俺は男だ。女みたいな座りションベンなんて、できるわけないだろう。ふざけるな。トイレに連れて行け、男のトイレに連れて行け。あそこなら立ってできるんだ」
まさに不快指数100%の言葉。基本フェミニストの私からみると、ここにはイグチさんのミソジニー(女性蔑視)とマッチョイズム(男性性を過剰に誇示する男性優位思想)があふれかえっていました。
この気持ちは今も変わらず、私は立ち小便に固執する男性は嫌いです。もちろん、トイレの仕様がそうであれば仕方がありません。けれども、通常の家庭用トイレであれば、男女とも座って排泄が可能なはずですよね。
しっかり立てる間はいいとして、少しよろければ周囲を汚すわけ。それを気にせず続けられたのは、誰かが汚したトイレを掃除してくれていたからではないでしょうか。
でも幸いなことに、世の中は少しずつ変わってきました。今はトイレを汚さぬよう自宅では座って排尿する人も増えていると聞きます。
<立つのか座るのか…それが問題だ!男のトイレ “新常識” に思わぬ落とし穴も,チューリップテレビ,2023/9/20>https://newsdig.tbs.co.jp/articles/tut/733484
時代が下るほどに、立ち小便への固執も薄れているのでしょう。これは恐らく、ミソジニーやマッチョイズムが、少なくとも建前の上では、肯定されなくなったからだと思います。

自分の恨みに気がついた
何年経っても、イグチさんの言葉に怒った瞬間を、私はありありと思い出すことができます。私はあの時、彼の<何が何でも立ち小便をする>という姿に、<女性が困ろうと知ったことじゃない、おれは男を張るのだ>というマッチョイズムの本質を見ていました。
そして、実際彼は、女性に<ちんちんを持たせてでも>、立って排尿することに固執したのです。自分では持てなくなっても諦めない立ち小便にこそ、マッチョイズムの本質が垣間見えます。
時が経った今も、基本的には、あの時の許せない気持ちは変わりません。一方で、あの時の激しい怒りは、イグチさんに怒りのスイッチを押されただけ。そんな風に考えるようにもなりました。
その怒りの大元は、生まれてこの方さらされてきた、ミソジニーやマッチョイズムに対する積年の恨み。イグチさんの行動は、それ自体に問題があったのも事実ですが、あくまでも導火線に過ぎませんでした。
なぜなら看護師として、排泄習慣を変えるのがいかに大変かは理解できます。当時も他の場面では、私はそのように患者さんを見てきたはず。あの時の自分の激しい気持ちには、やはり、積年の恨みがあったのだと思います。
このように看護師という仕事は、患者さんのケアを通して、自分自身の奥深くにある意識に気づいてしまうことがあります。それは時に、自分の心の闇というか、認めたくないもの。私もあの時、とても嫌な気持ちになりました。
けれども、気づいた恨みを見ずに、「<立ち小便は転んで危険>という、リスク管理の問題にすり替えるのは、やっぱり嘘なんですよね。おためごかし、っていうやつです。
自分の恨みがあることを、まず自分で認める。その上で<安全のために座ってしてほしい>と伝えるのが、正しい順序だと思うのです。
イグチさんは結局、施設への退院となりました。トイレを汚さなければ、兄弟からの支援を受けながら、もう少し家にいられたかも知れません。
マッチョイズムは、年を重ね、弱りながら生きて行くには、向かない性質なのは間違いありません。やっぱり立ち小便問題は奥が深い。排泄から見えるものって、本当に大きいんだなあ。

猫はいつも何を考えているのかな。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?