ポスターの件で制度の乱用などという話を見てあぁと思った。

高々あの程度のポスターがしかも選挙というギリギリまで表現の自由が認められるところでさえできないのだから、表現の自由の乱用などという前にそもそももうすでに日本に表現の自由なんざ存在しないということを示してるだけでは。

しかし、このことにおそらくほぼほぼ善良な市民は気付いてない。
そうだ、その通りだ!表現の自由だからってあんなものはダメだ。表現の自由は公共の福祉がどうのこうの言ってる。

いやまぁそれはその通りなのだが、高々あの程度のポスターである。
「本当にギリギリ」までそのセリフは取っておくべきではないのか。
本当にこれはもうありえないであろう、差別やヘイトのようなものでもなく、たかが乳首と局部を隠したヌードに近いポスターがこの国の表現の自由の限界なのかと、私はがっかりしてしまいましたよ。

乱用によって表現の自由がどんどん狭くなるのではなく、もうすでに表現の自由が失われた世界に我々は住んでいるのだということがわかって、大変がっかりですよ。

つまりあの程度が乱用と言われるくらいには我々の世界はすでに潔癖で漂白されているんですよ。
もうそうやって漂白された後の世界に強制的に住まわされている。

もっと泥臭い世界が私は好きだった。

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