オキナワンロックドリフターvol.84

話は6月に遡る。
既に私は6月はじめにはネットでピースフルラブロックフェスティバルの公式サイトを見つけ、再結成紫が出演するのは知っていた。
やはり出演するよなと思うものの、城間兄弟のことを考えたら複雑だった。
城間兄弟にこのことを伝えるべきなんだろうか。葛藤でいっぱいだった。遅かれ早かれ琉球新報や沖縄タイムス等でピースフルの記事が出て、知ることになるだろう。しかし、そのことで正男さんの心が変調をきたさないだろうか。不安だった。しかし、知るときは必ずくる。そんな思考が無限ループしていた。
意を決して打ち明けたのは7月間際だった。
正男さんと電話にて世間話をし、そのタイミングで正男さんにピースフルに再結成紫が出演することを打ち明けた。
沈黙が流れた。
「ふうん。で、ボーカルとベースは誰ね」
平静を装ってはいたものの、自分だけバースデーパーティーに呼ばれなかった子どものような戸惑いと悲しみが声のトーンから滲んでいた。
「ボーカルはJJ。ベースは、8-ballの照屋クリス」
私は白状した。
正男さんはしばしの沈黙の後、ぽつんと呟いた。
「やっぱりそうなるよね。俺たち、取り返しのつかないことしたからね」
そして、正男さんは深くため息をつかれた。
私の方が狼狽えてしまったせいか、逆に正男さんに心配された。
「正男さん、ごめんなさい。でも遅かれ早かれ知るかなと思って……」

「あなたが気にすることないさ、それに、べっつにぃ!関係ないさ」
当時、不遜な態度でバッシングを受けていた沢尻エリカの言葉を真似して気丈に振る舞う正男さんがいじらしくも悲しかった。
城間兄弟の自業自得ではある。それは正論ではあるし、そう言われたらこちらはぐうの音も出ない。しかし、それでも好きな人の落胆は悲しいので私は正男さんを元気づけられないかとあれこれ考え、誕生日が近いからと尋ねてみた。
「正男さん、そういえば誕生日近いですよね。なにかリクエストはあります?」
正男さんは暫く考えた後にこう返された。
「アイスクリーム」
よし、確か熊本駅にある乳業メーカーのテナントが確かアイスクリームを取り扱っていたな。そこのを贈るか。
「正男さん、好きなフレーバーは?」
「僕、バニラが好き」
還暦近い男性とは思えないくらい無垢な返しにちょっと笑いそうになったものの、私は「承知しました」と返した。
正男さんは動揺はしていたものの、どうにか大丈夫そうだった。しかし、俊雄さんは、電話に出る度に言動に破綻が感じられた。
ふわふわして、80年代の業界人みたいな擬音やオヤジギャグ混じりの喋りは危うさしかなく、私は俊雄さんに「お体の調子でも悪いのですか?」と尋ねても、のらくらとした言動で返されるばかりで不安は倍増した。
そんなこんなしていたら、ピースフル2日目となる7月8日になった。複雑ではあるが、私は清正さんには電話で、下地さんにはメールで応援の言葉を送った。
嫌に蒸し暑い朝だった。
ちょうど練習の合間だったのだろうか下地さんからすぐに返事が来た。
「まかちょーけー!!(まかせとけ!!)」と。
その日、眼鏡の奥の瞳が優しいギター好きのおっちゃんは紫の音を支えてきたいぶし銀のギタリスト、下地行男へと復活を遂げた。
ちなみに、その日はタフ&ココナッツのオーナーであるタフさんこと平岡さんを筆頭に、ココナッツムーンの関係者ないし常連の方々が、清正さんの似顔絵が描かれた揃いのTシャツを着て清正さんを応援されたそうだ。
タフさんのブログでは清正さんの演奏の巧みさや、リナママさんのセレクトだという割烹での打ち上げの賑やかな様子がさながら実況中継のように書かれており、やはり清正さんはレジェンドレベルのギタリストだし、いろんな方に慕われているなと思った。
そして、かなり酔っぱらわれたのか、下地さんからはかなりきつい下ネタメールが送られる惨事もあったが、ピースフルでの演奏を終えた下地さんのメールの文面からやりとげた充実感は伝わった。反面、自分でも呆れるくらいの判官贔屓だがやはり城間兄弟が気掛かりだった。
翌日、少し早いものの、城間兄弟にアイスクリームの詰め合わせを送った。
その二週間後だった。
下地さんからメールで、正男さんの入院と俊雄さんと連絡つかないと知らされたのは。
確かに、色々やらかしたかもしれないが、あの2人にこんなに不幸せをよこすことはないだろうと私は神を呪った。
動揺し、泣く私を下地さんは、内心「城間兄弟ばかりかよ!」と思ったかもしれないが、お2人の状況を説明された。
正男さんは発見が早かったのが不幸中の幸いだったという。俊雄さんも悲観することはない、時期がきたら必ず戻ると下地さんがおっしゃったので私は下地さんを信じた。
入院し、ひとまずは安静にされている正男さんはともかく、連絡がつかない俊雄さんが、心配でならなかった。
そして、うっすらながらも私の中に、今思えば未来の断片みたいなビジョンが見えた。
数年後には俊雄さんと会えなくなる。
そんなビジョンが。
城間兄弟の無事を祈って毎日を過ごした。そして、7月27日。奇しくも城間兄弟の誕生日に、フジテレビのDのゲキジョーなる番組にて沖縄市ミュージックタウンのこけら落としが生中継で放送された。
当初はこの生中継と併せるようにツリーに不要になった楽器をクリスマスツリーの飾りのように飾るというイベントが企画されたが、「楽器の墓場じゃあるまいし」という苦情があり、結局は却下されるという、ミュージックタウンの今後に暗雲が立ち込める出来事があったものの、テレビで見る限り、どうにか中継に耐えうるような盛り上がりを初日だからとはいえ見せていたようだ。
何も知らない祖母は番組を見ながら、「あんた、次に沖縄に行く楽しみができたね」と言い、私は祖母の問いかけに苦笑いするしかなかった。
そして、食事を終えると、受験勉強の為に部屋に戻って、扇風機をつけ、単語帳を読んでは単語を必死で覚えた。
職場での扱いの惨さ、貧しさ、先の見えなさ、さらに城間兄弟の心配と不安ばかりが積み上がっていった。しかし、ここで折れたら何もかもが水の泡になりそうだから、新聞を読み、小論文の課題になりそうな記事を切り抜いてスクラップブックに貼り付けては小論文を書いてみたり、声に出して英単語を覚えたりして日々を送った。
無我夢中でしがみつくように毎日を過ごし、城間兄弟とやっと連絡がつくようになったのは9月の始めだった。

(オキナワンロックドリフターvol.85へ続く……)

(文責・コサイミキ)

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