オキナワンロックドリフターvol.27

南京食堂に入った途端に、 険しい顔をした奥様の叱責を受けた。何で?と戸惑っていると、どうやら濡れた傘を持ったまま店に入るなということらしい。
急いで引き返し、店の外にある傘立てに傘を入れて入ると、先ほどの険しい顔とは一転して、奥様が切れ長の目を糸のように細めて「さっきはごめんね」と会釈された。
店は仕事前のフィリピン人ホステス達や出張中のサラリーマン達で賑わっており、私は空いていた隅の席を案内された。
セルフサービスのお水を取り、店内を見回すと、ご主人の字なのだろうか、迫力ある達筆と共に料理天国や夕食バンザイという番組に紹介された時や週刊誌に取材された時の写真が壁に貼られていた。
その中に、ユーミンこと松任谷由実さんとの写真もあり、なんだか切なくなった。
店の名物である小籠包に、豚玉子チャーハンとスープをオーダーした。
奥様が小籠包の食べ方をレクチャーしてくださった。美味しんぼで小籠包の食べ方があったなあと目を細めながら奥様の小籠包食べ方講座を真剣に聞いた。
少し時間がかかるということなので、テレビ画面の八丁堀の七人に集中することにした。
老舗の中華料理店で時代劇を見ながら小籠包を待つのはなかなか乙な気分だった。
ご主人だろうか、早口の甲高い中国語が響き、奥様が踵を返す。
料理が運ばれた。
まずはお待ちかねの小籠包だ。最初は奥様のレクチャー通りに蓮華ですくい、箸で少し小籠包を破き、溢れたスープをちゅっと啜ってから食べる。おいしい。
生姜とネギの風味がいいアクセントの肉汁を啜ると元気がわいてくる。そんな小籠包だ。サイズは思った以上に小振りだが、手製のむちっとした皮とよく練られ、それでいて肉の旨みが生かされた餡はあと引く美味しさだった。
私は夢中で小籠包を食べ、しまいには奥様のレクチャーをど忘れして、口の中の火傷も厭わない気持ちで熱いまま小籠包を口に放り込んだ。
がむしゃらに食べる私を見て、奥様が呆れながらも私に尋ねられた。
「うちの小籠包をとても気に入ったみたいね」と。
私はもちろんですと言いながらチャーハンを食べはじめた。少し塩気が強いものの、ぱらっとふっくらした米にふわふわの玉子、カリカリの豚コマのチャーハンに具はネギだけなのに深みある鶏の出汁のきいたスープもまた絶品だった。胃袋のキャパオーバーを気にせず小籠包を追加オーダーしたい気分だったが、次々にくるお客さんが小籠包をオーダーし出したので売り切れそうだ。
まだ食べたそうな顔の私を見て、奥様はデザートの代わりに問わず語りをしてくださった。
台湾訛りの言葉が心地よく、AMラジオで時々流れてくる台湾の歌謡曲のようだ。
「うちの小籠包を気に入ってくれて嬉しい。私とお父さんとでずっと切り盛りしてやっていたけれど一番お客さんで賑わっていた時は寝る暇もなくてお父さんと小籠包をチマチマ作っていたわ。1日に1000個は作っていたかも」と。
このこじんまりした料理店で、ご主人と奥様は沢山の小籠包を作り、せわしなく店内を動き、時には喧嘩しながらもこの街の移り変わりを見てきたのだろうと、店を見回しながら思った。
話の途中で、奥様は大きくため息をついた。

「けれどね。ここ数年はお客さんもこなくてね。小籠包も1日に400個作れたらいい方よ」と。
不況に9.11の影響と立て続けに衰退するコザの街。小籠包の捌ける数がコザの青息吐息さを物語っていた。
さらに、奥様は寂しげに笑って呟かれた。
「今年いっぱいで店を閉めようと思うの」
あまりの衝撃的な言葉に、私は最大限に目を見開いた。
私が思い切り悲しそうな顔をしていたのかもしれない。奥様は苦笑いをしながら続けられた。
「今年まではできるだけ頑張るからね。アメリカにいる息子たちが私たちを呼び寄せているの。来年はお父さんとのんびりするけれど」
じゃあ、今年まではこの最高の小籠包にありつけるのか、帰ったら早く就職しようと決心した。
「早くまたここにおいで。待っているから」と、奥様は糸のように目を細めた。
私ははいと即答し、奥様に握手をした。
ひんやりとしていた手は固くやや骨ばっていて、長年の歴史と働き者な奥様の気質が伝わる、そんな手だった。
店が少し暇になり、お見送りをされる奥様に何度もお辞儀しながら南京食堂を後にした。
まだ時間はある。どこで時間を潰そうかとゲート通りをうろついた。
中の町のGood Timesではアメリカ人のがなり声が聞こえる。
舌ったらずな喋りの店の女の子にモスコミュールをオーダーして、ついでにカラオケでもしようと100円払ってカラオケを楽しむことにした。
Deep Purpleの“Speed King”を唄うと、若いアメリカ兵から「だせえぞ!」、「そんなの歌うな」とブーイングが飛んだ。しかし、心の中で中指立てながら無視して熱唱したら店の女の子が私を見てサムズアップをしてくれ、それがなんだかおかしかった。
唄うと少しすっきりしたので、ゲート通りと中の町を歩いた。
しとしとと雨降る夜のゲート通りはどこか情緒的で、帰りたくないなと思うくらい愛しかった。
不意に身震いがして、お手洗いを借りようとするものの、ほとんどの店が閉まっていた。
小走りでパークアベニューまで急ぎ、Web-Spaceというネットカフェ兼ライブハウスでお手洗いを借り、酔いを覚まそうとウーロン茶をオーダーし、追加料金を払ってネットを繋ぎ、サイトの日記の更新や掲示板のレスポンスを済ませた。
店内を見回すとアメリカ兵のバンドが練習をしていたが、お世辞にもうまいとはいえず、体力がゴリゴリと削られそうな気分だった。
マスターにネット使用のお礼を言い、今度はパークアベニューとパルミラ通り、一番街を歩いた。
パルミラ通りは「せりかの店」という韓国料理の店だけがネオンを灯し、一番街もしんと静まりかえっていた。
そろそろ帰るかと思ったものの、“オーシャン”が開いているか気になったので覗いてみることにした。
店に入るとヤッシーさんが上機嫌で弾き語りをし、常連客が一緒に歌っていた。
私を見るや否や、ヤッシーさんは塩対応に。相変わらずというかなんというかこの店には愛想という概念はない。
コーラをオーダーし、カウンターを見るとCDが何枚か積まれていた。まだ未発売のCDのようだ。
目を凝らして見ると、どうやらスネークマンショーみたいな内容らしい。
「ん?ハナヂラーズ?」
「ハヂチラーズ!!」
ヤッシーさんと常連客の総ツッコミを受けながら私はCDを手に取った。
なんだか面白そうなので、私はCDを買うことにした。CDを手渡すヤッシーさんの態度が少しだけ軟化した気がした。
常連客の一人が、買ったんだからお礼に一曲弾いてあげたらと提案し、私をちらりと見るとヤッシーさんは渋りだした。この野郎と私は少しだけ思った。
結局、常連客の皆さんからに押しきられるように一曲披露された。ヤッシーさんのもったいぶった咳払いがやけにおかしかった。
歌うのは「ノーテンファイラー」、ヤッシーさんのオリジナル曲である。
ヤッシーさんがよく歌われる曲なのか、常連客の皆さんが歓声をあげ、歌の合間に合いの手や指笛が飛んだ。
かなり難易度の高いウチナーグチに、私はぽかーんと口を開けながらも私も手拍子を返した。
歌い終わった後、ヤッシーさんがどや顔でこっちを見たので私は拍手でレスポンスした。
よし、機嫌がよさそうだ。ついでにタコスはないか聞いてみよう。あったら明日のブランチにしよう。
しかし、ヤッシーさんの返答は相変わらずだった。
「ない!」と。
いつになったらタコス作るんですか?と懇願したものの、ヤッシーさんは「俺の気が変わるまでない」と塩対応。こりゃ滞在中にタコスはありつけないなとがっかりしてオーシャンを去った。
去り際に歌のお礼を忘れずに。
ヤッシーさんはふんとそっぽを向いたものの、まんざらではなさそうだ。
「素直じゃないなあ」と思いながら私は肩をすくめて嘉間良のゲストハウスまで足を早めた。
ネットで天気予報を見たら、明日は曇り。
明日は北部観光だ。それに、清正さんに会える。
清正さんのキリリとした髭面を思い出しながら私は夜のコザの街をスキップした。

(オキナワンロックドリフターvol.28へ続く……)

文責・コサイミキ

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