オキナワンロックドリフターvol.53

正男さんの3度目の不祥事から1ヶ月した後、黙々と愚直にサイトを維持していたからだろうか、後に新しい常連となる人たちが掲示板に書き込みをはじめてくださり、私の庭にまた新しい花が咲いた。
那覇の老舗ホテルのホテルマンの傍らギタリストをされているムオリさんは私が城間兄弟と関わっていることを心配しながらも、沖縄ロックのイベント等の情報やライブレポ等を教えてくださり、かなり助かった。
たまに、思い出したように沖縄ロックの音源の情報を教えてくださる、ハードロック&ヘビーメタル音源レビューサイトのサンミゲルさんは当時招待制SNSとして人気を博していたmixiに招待してくださり、私の世界は少しずつ広がっていった。
mixiに常連さんを何名か招待し、私は思いきってIslandのコミュニティをmixi内でも始めた。少しでも同士が出来ればいいなと思いながらも私は愚直にSNSでもできることをやった。
そうしていると、やはりいいことを引き寄せるようで、ふたついいことが起きた。
ひとつはサイトの掲示板にやってきた新しい客人である。
普天間でジャマイカ料理店を営むオスカーという客人は不祥事の2週間前に来店され、店内でミニライブをされた正男さんのことを話してくれた。
当時の正男さんはレゲエをかなり聴いていたようで、ボブ・マーリーの“Jumming”や“No woman No cry”を唄われたことをオスカーは流暢な日本語で教えてくれた。オスカーの書き込みに私は心からの感謝を返信した。
さらにオスカーはメールにてその時の写真を見せてくれた。派手なタイダイのシャツにチャンピオンベルトか!と言いたくなるような大きなベルトのバックルに頭に巻かれたターバンという出で立ちの正男さんは突っ込みどころ枚挙に暇がなく、卒倒しそうになったが、唄う正男さんの姿は写真からも伸び伸びと楽しそうなのが伝わり、私は複雑な気持ちで写真を保存した。
ふたつめはmixiにて。最初は勝手がわからず、紫のコミュニティに参加されている方のページを見て足跡を残したり、Islandのコミュニティに参加してくださった方にお礼のメッセージを送信したりとmixiの使い方を模索していた。そんな時だった。
中道(ちゅうどう)さんという方がmixiの掲示板に書き込みしてくださった。中道さんは熊本出身の埼玉在住のサラリーマン。熊本出身ということで行きつけのレコード店や平成に時代が変わると同時になくなった洋食屋やおもちゃ屋等地元熊本の失われた風景の話で盛り上がった。
中道さんは70年代後半に熊本は八代で行われたというロックフェスで紫が出演した時の話を熱っぽく語られた。再結成以降の紫やメンバーが解散後に立ち上げたバンドには興味がなく、中道さんは全盛期のオリジナル紫の想い出を大事にされて、それを幼い頃の宝物をそっと見せるように私に教えてくださった。
以来、中道さんは2012年に考え方の違いで袂を分かつまで長い付き合いになり、いろいろアドバイスをしてくださった。
さらに、サイト内でもお世話になっているムオリさんをmixiに招待したところ、コミュニケーション能力を発揮し、さらにはムオリさんの沖縄の友人をmixiに誘い、その方々に私を紹介された。
ムオリさんから紹介された友人は、園田青年会のOBにしてブルースマンのひがよしひろさん、Islandのセカンドアルバムに収録された曲“Emily”で正男さんとデュエットされたチーコさん等知る人ぞ知るオキナワンミュージシャンばかりだった。ミュージシャンではないが、ムオリさんは、ミュージシャンではないがオキナワンミュージシャンとも近しいという新垣さんというご友人も紹介してくださった。新垣さんはかなりのゲーマーで、新垣さんと私はmixiのページ内掲示板や日記でドラクエやライトノベルの話をして盛り上がった。しかし、ムオリさん、恐るべし。私はムオリさんのコミュ力に恐れをなした。
さらに芋づる式で人の繋がりは増えていき、地道に黙々とサイトやコミュニティ活動をした甲斐があり、サイトやmixiのページに新しい人たちの来訪が増えた。
2005年の大阪でのJETのライブを観に行かれたというガウガウさんという方からJETのライブレポの書き込みがあり、さらにmixi日記でもオキナワンロックについて書いていたらメッセージがきた。
メッセージの差出人は水越さんという外資系証券会社勤務の方からだった。水越さんは数年前からコザ通いをされており、コザに行くと必ずかっちゃんの店である“Jack Nasty”に寄られるという。そんなかなりディープなコザリピーターからのメッセージに私は目を丸くした。

「まいきーさんのサイトでのエッセイを読ませて戴きました。まるで冒険物語のようで手に汗を握りました。そして、こんなにオキナワンロックやコザが好きな人がいるなんて親しみを感じました!」
いや、それはこちらも同じ事。オキナワンロックを好きな人が、しかもこんなディープな方がいるなんて!と私は新しい世界が広がっていくことに胸を躍らせた。
話は飛ぶが、小6の頃、私はクラスで四面楚歌にあい、すべてを否定され、さらに家は両親の不仲からギスギスしており、肩身の狭い思いをしていた。
「ダメ人間」、「お前みたいな人間は世の中に出たら必ずうまくいかない」、「誰もお前なんかを好きになる奴なんていない」
毎日のように投げつけられたその呪いの言葉は岩場に張り付いたフジツボや牡蠣のように私を覆っていった。
しかし、ぼろぼろになりながら小学校を卒業し、中学に進学する前の春休み、私はアメリカホームステイプログラムの研修の為に神戸に行った。
門司港から神戸港までは船旅。私は沈む夕日見たさにデッキへ向かい、視界に広がる凪の海と夕日の燃えるような赤さに心うち震えた。
海は広い。たとえ今、周囲に愛してくれる人がいなくても、広い海を渡った先や世界のどこかにおまえを愛し、大事に思う人がいる。
そんな言葉をその日見た夕日と海は優しく語りかけてくれるかのようだった。そして、それは間違いではないようだ。ネットという大海原を渡った先ではあるけれども。
私の2005年はネットの海を小舟で漕いで渡り、ホームページ、mixiという島々で人と出会っていくような1年だった。mixiのIslandコミュニティにも少しずつ参加者が増えていった。

一方で俊雄さんのことが気がかりだった。私は久しぶりに城間家に電話した。

やはり、正男さんの不祥事からか声に力はなかったが、不穏なメンタル時のハイテンションな喋りはなく、ボソボソした声で淡々としゃべる俊雄さんに戻っていた。
当時の俊雄さんはいろんな雑務で忙しそうだったので電話で手短に話す程度になったが、それでも時間のある時は身近な話をした。
結局頓挫したようだが、コザのパルミラ通りにソメイヨシノが植樹され、春には沖縄でも緋寒桜の赤い桜ではなく、薄桃色の桜が見られるかもしれないという話をした時、俊雄さんは「いいねえ。コザでソメイヨシノが見れるわけか」と嬉しそうに話された。
私は桜の花咲くパルミラ通りを俊雄さんと二人で歩き、笑い合う未来を夢想した。
「俊雄さん、もし、パルミラ通りに桜が植樹されたら一緒に桜を観に行きましょうよ」とお願いしてみた。
俊雄さんは少し考えられたようだが、「んー。いいね。一緒に歩こうか」と返事をされた。それがとても嬉しかった。
結局、そのそぞろ歩きは永遠に叶わぬ夢になってしまったが、私は叶うと信じていた。
そして、その頃から俊雄さんへの淡い思慕を抱き始めていた。
私は俊雄さんが好きだった。とても、とても。

(オキナワンロックドリフターvol.54へ続く……)

文責・コサイミキ

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