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子どもを救いたいのならば

子どもを救いたいと願う。

だれが?

ぼく自身が。
そして、多くの人が。


子どもを育てる。あるいは、子どもを救う。

あいや、別にそれは子どもでなくてもいい。
他人を救いたいと思うのは、人間にとってごく自然な「現象」です。


身体能力に優れるネコ科の動物はいざ知らず。
また多産を生存戦略としている昆虫は昆虫で、それぞれ異なった「心」を持っている。

身体能力には余り恵まれない代わりに、多数の個体の集団が協働することを生存戦略として選択した動物にとっては、他者を救うことは、間接的にみずからを救うことにつながる。ことに子どもは未来を約束してくれる。

ぼくたちホモ・サピエンスは集団の協働によって生き延びる動物の典型だと言えます。


ただ。
協働の集団の機能が「虚構」という頭脳的作用によって拡張されている人間社会では、「他者を救う」ということが、「自然な現象」というにはいささか様相が異なる体で現れることがある。

それは【正義】という装いをまとっています。



先頃、とても不幸な事件がありました。

字を覚えたての子どもが必死で訴えたのに、応えてもらうことがかなわずに、幼い命が奪われてしまった。

文字として残された「必死の訴え」が公に出て、多くの者が涙した。


どの事件のことを指しているか、多くの人は察しがつくだろうと思うので、ここでは具体的には触れません。あの言葉は、幾度も触れるには悲しすぎる。


ぼくも含め、多くの人は加害者に憤慨しました。なかには勢い余って、児童相談所にクレームを入れた人もいるらしい。なぜ、救ってやることができなかったのか、と。


大人は、子どもを救いたいと思うのならば、まず自身を救わないといけない。


加害者への憤慨も、悲劇を防ぎ得なかった行政への憤慨も、源泉は「人間にとってごく自然な」ところにあるのは間違いありません。

でも、それだけではない。
そこには、別の【何か】が混ざり込んでしまっています。

その【何か】は、「ごく自然なところ」を強張ったものに変質させています。「正義」という厳めしいものに。


児相へのクレームは、もはや「正義」からは逸脱していると言わざるを得ない。けれど、それは程度問題です。【何か】の混じり気が多過ぎて逸脱したけれど、【何か】が原因であることは同じです。


では、程度を逸脱しなければいいのか?

そうかもしれません。
けれど、その前に、その【何か】を突き止めないことには話にならない。


この【何か】は、多くの「憤慨」が標的にしている対象が抱えているものと実は同じもの。

その【何か】は常に弱い者へと向く。

子どもは自然に弱い存在であるから、【何か】は常にそちらへ向く。
犯罪者は社会的に弱い存在となって、【何か】はそちらへ向くようになる。


加害者は処罰されるべき対象でしょう。

「加害者は処罰されるべき」も「正義」ですから、ぼくには若干の異論があるのですが、ここではそこまで深入りはしません。社会的な常識に従って「加害者は処罰されるべき」という「正義」を、とりあえずは良しとします。


だとしても社会的な「正義」と、個人的な「憤慨」は別の話。

「憤慨」の中には処罰感情が交じっている。
処罰感情が大きすぎると正義を逸脱して対象が正義を執行しようとしていたはずの人たちや組織にまで向かう。

では、処罰感情はどこからくるのか?

復讐心です。


被害者が加害者に復讐をするのならば筋は通ります。

けれど「人間として自然」があるにせよ、第三者の復讐は筋違いと言わざるを得ない。

筋違いの対象に処罰感情という名の復讐心を抱く。
が、それは「代償行為」に過ぎない。

本当に復讐をしたい対象に対して復讐をすることがかなわない。かなわないから【何か】を抱える。

かなわないから、かなえることができる相手に対して抱えた【何か】を向けて、偽りの復讐を果たす。

【何か】とは【自己嫌悪】であり【不機嫌】。

加害者が抱えていたものと同じ。


人間として「自然な」ところは否定することはできません。
社会を営むことを生存戦略としているホモ・サイピエンスであるぼくたちが、他人、ことに子どもが理不尽に遭ったことに対して「危機感」を抱くのは自然なことです。

理不尽への否定的な感情の源泉は、自身の存在を危うくしかねない危機感に他なりません。

児相へのクレームは、ぼくたちを生存なさしめている社会を危うくするから、ここにも危機感が働く。自身の危機を遠ざける社会安定への欲求が純粋な「正義感」でしょう。

「正義感」が「正義観」となって言葉によって定義されるようになると、隠蔽の余地が生まれてきます。自身の筋違いの復讐心にも「正義」という衣をかぶせれば【正当化】することができるようになります。


加害者は子どもに対して、「しつけ」と称した【正当化】をしていたはずです。推測に過ぎないけれど、断言していいと思います。

「しつけ」は「正義」に他なりません。

ぼくたちは加害者に(筋違いの復讐心が隠蔽された)処罰感情を抱き、それを「正義」の名の下に【正当化】している。

【正当化】とは【筋違いの隠蔽】に他ならないし、【筋違いの隠蔽】という意味において、子どもに理不尽な仕打ちを加えた加害者と、加害者に「正当な」処罰を望むぼくたちと間に差異はない。

それでもやはり、「程度問題」に過ぎないのでしょうか。



ひとり一人が抱えている個人の【何か】の量についてはいうならば、加害者や、あるいは児相にクレームを入れてしまうような人たちと、「ふつう」の人間とは差があるといえるでしょう。

けれど、ひとりに向けられた量に着目するなら、どうか。

ひとりの子どもが、1人ないしは2人の大人の【何か】によって理不尽な目に遭った。

この大人は加害者となった。

1人ないしは2人の加害者に対し、ひとり一人から向けられる量は少ないかもしれないけれど、多数の者から【何か】が向けられることになった。

大を抱えた少数対1人。
小しか抱えていない多数対1人。

算数の計算ならば、常に 前者>後者 とは言えません...



ここまで読んでいただいて、感情的に納得できない人も多かろうと想像します。反撥を覚える人も、きっといるでしょう。

挑発になってしまいますが、あえて言いましょう。

反撥を覚えたなら、この文章を意図を的確に捉えたということだと思います。抱えている【何か】と的確な把握がバッティングして、反撥になる。

的確な把握だけでは反撥は生じません。【何か】を抱えていることが反撥発動の条件です。反撥の感情が生じたなら、両方の条件を満たしたということ。


【何か】はつねに弱いところへと向かおうと潜在的に運動をし、その「運動」が妨げられると【不機嫌】が感情の露わになる。

【不機嫌】は自然の弱者である子どもに向かう。
あるいは社会的な弱者である女性や犯罪者や貧困の者に向かう。


子どもを救いたいと思うのは、人間としてごく当然の「自然なこと」です。

その「自然」を阻む【何か】がある。

大人は、その【何か】から救われないと、「自然なはずのこと」がかえって子どもを苦しめることになってしまいます。


感じるままに。