一日一食のススメ

このテキストを構想しているちょうどそのときに、公式から企画が持ちあがりました。

もっとも、当テキストは10代に向けてというわけではありません。事の性質上、身体が成長途上にある10代にはオススメできない。ある程度身体ができあがった成人向け。

自身を思い返してみるに、10代の頃の悩み方は特別です。けれど、悩みは10代だけのものではない。20代以降の成人であっても悩みは尽きることがない。当テキストは悩みの中にいる大人向けのものです。


★ 大人であるからには「自分自身」を知っておきたい

「一日一食」というと、ときおりこのことを実践している芸能人の話題として取り上げられることがあります。もっともよく名前が上がるのは、タモリでしょうか。

何ごとかを始めるときの動機の持ち方として、「有名人が実践しているから」はありでしょう。ことに、まだ自分が確立し得ない10代の頃までは。けれど、大人であるなら、関心の入口はそうであったとしても、実践の動機は「自分自身を知るため」でありたいものだと思います。


では「自分自身を知る」と言ったとき、まず思い浮かぶのはなにか。自身が習得したスキルか、あるいは自身の精神(こころ)の状態というのが一般的なところ。

身体(からだ)というと、関心の持ち方は「健康」です。だれもが健康であることを望む一方で、では、健康とは具体的にどういった状態かというと、あまり具体的なイメージはない。身体に不具合を感じないのが健康、身体検査の各種数値に異常が無いなら健康――どちらかというと、消極的な把握のされ方が「健康」という言葉の意味するところ。

そうした健康観を通じての身体把握は、到底、「自分自身(の身体)を知っている」とは言えないでしょう。

よりよく生きていくために「精神(こころ)の状態を知る」ことは広く勧められています。なのに、身体に関して「自分自身を知る」ことは、あまり広く勧められているとは言いがたい。


★ ヒトには一日一食が適している?

ぼくが「一日一食」に最初に関心を持ったのは、落合信彦さんの本でだったと記憶があります。ぼくもまだ20代の血気盛んな頃で、戦闘的ロマンに満ちた落合信彦さんには憧れを持った。今では、黒歴史とまでは言わないにしても、ちょっと恥ずかしい思い出になっていますが。

一日一食についての記述があったのは、アメリカの傭兵学校の訓練の様子を紹介した記事でした。傭兵たちは極限状態のなかで生き残ることが前提になりますから、訓練も非常に厳しいものになる。訓練生は極限の状態にまで追い込まれていく。そうなると人間は自然に一日一食になっていくのだ、一日一食が人間が持つパフォーマンスを最高に保つのに最も適した食事摂取方法なのだと、落合さんの本には書かれてあった。

惹かれるんですね。血気盛んだと、こうした挑発的な書き方には。といって、当時は実践しませんでしたが。なんとなくではなく、明確な理由があって。


20代の頃は登山に入れ込んでいた頃で、カネと時間があれば山に行っていました。冬の時期の高山への登山は、戦場とは趣きがまったく違うでしょうけれど、これはこれで相当の極限にまで追い込まれることがある行為、要するに愚行です。

雪山で行動するときのことを考えると、一日一食ではとても持たないという感覚があった。低温の中で重労働を続けるのには、一日一食どころか5食食べてもも体力維持はできそうにない。一週間も山に入ると毎回、良くて3キロくらいは体重が減っていましたから。必要とされるエネルギーが人間が消化吸収することができるエネルギー量を超えるんですね。


★ 環境に適応せよ!

30代は生活の場が山でした。登山は愚行でしたが、生活の糧を確保する場として山に居たのが30代から40代前半です。

この頃は、ごく一般的に一日三食でした。この頃も体力を使ったので、といっても極限までということはありませんでしたし、三食は適していたと思います。当時は一日に米を4~5合はたべていましたから、3回くらいに分けないと胃袋に入らないというのもあった。この頃は170センチの身長に体重は75キロ。このくらいの比率で適当だったわけです。

体力を要する仕事をしなくなった現在では、体重は60キロそこそこ。それでも体脂肪は75キロの頃よりも多いかもしれない。ということは、食べ過ぎだということです。一日一食プラスアルファが現在の食生活ですが、一食が多いか、プラスアルファが余計だということでしょう。


ヒトは環境への適応能力に優れた動物です。文明の技術力でかさ上げされている部分はありますが、それでも素の身体能力として優れている。そうでなければこれほど地球上の広い範囲で繁殖していくことはできなかったでしょう。ゴキブリは北海道には居ないし、ここ富士山麓にもいません。

環境への適応は、当然に生活のスタイルにも及ぶはずです。「当然に~はず」という書き方をするのは、そうはならないから。食事の(動物としての)主目的はエネルギー吸収ですが、田舎の肉体労働者と現代の都市生活者では要するエネルギーが違う。なのに、生活スタイルはほぼ変わらない。

現代、日本という範囲で見るならば生活の標準は都市生活になっているのに、食事のスタイルは田舎の肉体労働者のそれが標準のまま。そのことは家族の構造にまで及んでいる。

米を一日4~5合食べないと持たないような生活をしなければならないのなら、食事の世話をしてくれる人間も必然的に(生物学的に?)必要になってくる――ぼくが抱えている実感からいうと、そうです。その役割を担ってくれたのは家内でした。ぼくたちの過程には子どもはいませんが、いればなおのこと、役割分担をしないと大変です。

一日一食で済ませられる現在では、その方面では必要がなくなってしまいました。なので、現在は基本、自身の食べるものは自身で用意をします。時間的にその余裕があるし、余裕があるなら自身でやるに越したことはない。「環境への適応」です。

(強調しておきますが、あくまで「その方面」です)。


★ 1日24時間のなかで、自身をいたわる時間を持つ

一日一食をオススメしたい対象者は、身体がある程度できあがった都市生活者です。通常の都市生活で必要とされるエネルギー量は、一回の食事で十分に摂取することが可能――基本的(生物学的)な理由です。

そして食事の回数が一回で済むならば、時間的に余裕が生まれる。そうやって生まれる時間を「自分自身をいたわる時間」に回せばいい。

「自分自身をいたわる」というのは、自分で自分の食事を用意するということです。もちろん別のことでもいいのだけれど、基本的なところへ立ち返るならば、それがいい。現代の都市生活は便利だけど忙しすぎて、というより、便利にするために忙しくなり過ぎていて、なかなか「自分自身をいたわる」時間を持つことが難しい。


「いたわる」ということをするためには、知っておかなければならないことがあります。それは「いたわる相手を知る」ということです。気持ち(精神)をいたわるにしても、身体をいたわるにしても、知らないことには始まりません。よく知って、欲しているときに欲しいものを提供することが「いたわる」ことになる。

身体の方面に関して「よく知る」には、「ちょうどよいエネルギー摂取」をすることがちょうどよい。「ちょうどよい」からちょっとのバランスを変化がよくわかるようになる。

そして、自身の「ちょっとのバランスの変化」に敏感になり、そこを自身で調整する方法を習得していくと、いろいろなところへ応用が利くようになっていく。他人に気遣いをできるようになったりするのも、「ちょっとのバランスの変化」に敏感だからです。

ちなみに「敏感になること」は「自分に正直になる」とも言います。


★ 女性はもともと敏感だけど、男だって敏感になれる

大きく個人差があることだと断りを入れる必要がありますが、おしなべていうと、女性は男性に比べて「ちょっとしたバランスの変化」に敏感です。それは子どもを育てる役割を担う(ことを予定されている)という生物学的要請から来るものだと言っていいでしょう。一方で男性は、より肉体的負荷の大きな仕事を担うことが予定されている――現在は「いた」というべきかもしれませんが。

というのも、産業構造が大きく変わって、もともと予定されていた役割はあまり必要ではなくなってきたからです。身体能力に比較的劣る人が集団で生き延びていくために配した役割分担が現在では機能しなくなりつつある。

負荷が大きい労働をするにはある程度鈍感であるほうが有利だったりもするのだけれど、その有利さが構造的に機能しなくなってしまっているのですね。だから不機嫌なオッサンが生まれて、かろうじて獲得した既得権益を目一杯活用して構造的変化に反抗を試みようとする。迷惑な話ですが、構造変化の際に生じる一過性のものであると言えます。

構造の変化は、女性優位になりつつあるように見えます。要請される労働が、かつてのように「強度」より「繊細」が求められるようになると、元々敏感な女性の方が有利になる。感情労働というやつです。

では、男性が感情労働に不向きかというと、そういうわけでもない。きちんと訓練をすればできるようになる。女性とても、元来の子どもや家族向けの敏感さと家族労働で求められる敏感さには質的な違いがありますから、調整する必要がある。男性にせよ女性にせよ、感情労働をこなしていくためには、個を確立しておく必要があります。

確固とした個があってこそ、感情労働を適正にこなすことができる。リーダーに求められるマネジメント能力には個が確立された上での「敏感さ」が必要で、「個が確立された上での敏感さ」を養うには「自分自身を自分自身でいたわる」ことが必要になってきます。


★ まとめ

要するに一言でまとめますと、一日一食は、大きく変化しつつある産業構造の変化に対してメリットがあるということです。適正なエネルギー摂取。有効な時間配分。自身のケアを自身で行うことから養われる(であろう)「個の確立」。感情労働へ対応。

が、なにより大切なのは「自身が変わることができる」ということを知ることができるということです。人間は環境に適応して、心身とも変化していく。現に食生活とても、時代の環境の変化とともに変わってきた。

「自身を変えるには環境を変えよ」とはよく言われることです。人間が環境によく適応する性質があるから言われることですが、食生活も重要な環境です。空間は変わらなくても、食生活が変われば時間環境が変わる。

食生活を変え、時間環境を変えることは、空間を変えることよりも物理的な条件においてはずっと容易。半面、精神的な条件ではハードルが高いかもしれません。ぼくとても、空間環境の変化に伴って時間環境が変わり、その流れで一日一食になっていったわけですから。


とはいえ、食生活は自身の意志次第で変えることができるものであることに間違いはありません。そして、変わってみれば、一日三食の食生活が惰性であることに気がつき、実感を得ます。この実感を自分自身で獲得することが何よりも大切。この「身体的実感」が自己肯定へ基盤になっていくからです。

意志がわりと簡単に揺らぎますが、「身体的実感」にまで至ると簡単に揺らぐことはありません。悩みに苦しむ大人が必要とするところ。


10代にオススメできない理由もそこにあります。10代はまだ身体発展の途上ですからエネルギーの要求量も多い。身体が成長していくことの身体的実感が勝っている方が自然な形だからです。

ゆえに身体的な観点から見れば、不安定なのが自然。彼らにはまだ身体的不安をサポートする(ドメスティックではない)ソーシャルなケアが必要です。

感じるままに。