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今日と同じ明日

万物は流転すると言ったのは、古代ギリシャのヘラクレイとトス。諸行無常と言ったのは、お釈迦さんだ。

別に偉い人に言われなくても、日々が常に変化していることは誰だって知っている。「万物」とか「諸行」とか、大げさなことは言わないにしても。

昨日と同じ今日は、ない。
今日と同じ明日も、ない。

それでなくても日本は四季の移ろいが豊かな国。
木々は紅葉したと思ったら、すぐに色褪せて、もう葉を散らしている。我が家のしぶとい紫陽花も日々の移ろいには勝てず、ようやく寿命を迎えた。よく頑張ったものだ。


子どもの頃は今日と同じでない明日が楽しみだった。嫌なこともいっぱいあったけれど、それでも明日は楽しみだった。

楽しみな明日。
その意味では、昨日と今日と明日は同じだったのかもしれない。


翻ってみれば、大人になった今でも同じだ。
楽しみではない明日。
昨日も、今日も、明日も。

ベースが楽しみではないから、楽しみを作らなければならないと思ってしまう。今日は昨日とは違う今日にして、楽しみを作る。明日は今日とは違う明日にして、楽しみを見つけ出す。

子どもの頃は、楽しみは「そこにあるもの」だった。なのに、大人になった今では、楽しみは「創り出すもの」になってしまった。

創り出すことができたときは楽しい。
それにスキがつけば、なお楽しい。

でも、大人は忙しい。
楽しみを創り出す余裕がないことだって多い。

子どもの頃は、楽しみはふつうのものだった。
大人になると、楽しみは特別なものになってしまった。

いつの間にか。

ふつうであろうと特別であろうと、幸せを感じるには楽しみは必要。だから幸せも特別なものになった。


今の社会では「ふつう」は平凡なものではない。
「ふつう」は非凡なものになった。
昨日と違う今日、今日と違う明日を創り出すことができるものだけが、楽しむことをできる。

現代では、社会は日々進歩している。
日進月歩どころか、時進日歩だ。
吸収して成長の糧にすべき情報が刻々と流れ込んでくる。
そしてぼくたちは、その状態を良きことだと考えている。

が。
それはたぶん自己欺瞞。
そうでなければならないと何かに強迫されている。
なのにその何かがわからない。
わからないから怯えている。


「今日と明日は違う」ではダメ。
「今日と明日は違うようにする」でなければ。

でも、本当にダメなのだろうか?

感じるままに。