淋しくなってよかったこと。

『年を取ってよかったこと』の話の続きということで。

いろいろありますが、ひとつあげると、寝起きが悪くなったこと。
若い頃よりも明らかに身体の活性度が下がっています。

身体の活性度が下がっていることは「よくないこと」です。
でも、それは経年劣化だから仕方がない。

自分の身体を経年劣化したなんて書くのは、とても淋しいです。
活発だった頃の記憶がありますから。
生々しく。

淋しいから、経年劣化した事実を拒否して抗うということもできます。身体の活性度を上げるような活動をしてみる。
運動をしてみるとか。
身体に良さそうな食品を採るようにするとか。
不摂生をやめるというのもあります。

そういった方法は、一時的には効果があるでしょう。
若返ったような気分を味わうことができるかもしれません。
だけど、若返ることはありません。絶対に。
経年劣化していくという大きな流れを変えることはかないません。


事実を認めて引き受けること。
これができることが「大人になる」ということなんだと思います。

それができると、そこから「新しいこと」が生まれてきます。
「新しいこと」ところを育てるというのは「よいこと」です。
部分的かもしれないけど、「子どもに返る」ことができる。


経年劣化して活性度が下がった身体は、出力を上げていくのに時間がかかります。
鍵は「時間がかかること」です。
それが「よいこと」か、「よくないこと」か。

若い感覚、あるいは現在の社会を支配している価値観からすれば、
「時間がかかる」ことは「よくないこと」でしょう。
だけど、「時間がかかる」=「ゆっくりになる」ことは、
「よく見える」ことにつながっていきます。

「よく見る」ことができれば「よくわかる」ことが出来ます。


「よく見る」ことに必要な要素は、時間と感性です。
鈍い感性では、時間をかけても「よく見る」ことができない。

感性は経年劣化しません。
僕は年を取ったという自覚はありますが、感性が鈍ったという自覚はまだない。
若かった頃のことを“生々しく”思い起こすことができるという事実は、感性は劣化していないという事実を示しているのだと考えます。

ゆっくりになってよく見えるようになることは「よくわかること」です。「あたらしいこと」です。
「あたらしいこと」はわくわくします。
「よいこと」です。


具体的な例をあげましょう。
たとえば、喉の渇きを癒やすこと。

目が覚めたばかりの身体は水分が不足しています。
脳の中のセンサーがそのことを意識に伝え、
私たち日本人は、その感覚を「喉が渇いた」と言語化している。

若かったときには、喉の渇きを癒やすことを乱暴にやってしまっても大丈夫でした。
冷蔵庫の冷えた麦茶をごくごく飲んで、コップ一杯では足りなくて、二杯も三杯も飲んで、「あ~、蘇った!!」とできた。

アラフィフになってしまうと、そんなことはしません。できません。
やると身体をおかしくしてしまう。
だけど「あ~、蘇った!!」という感覚は、思い出せば鮮明に出てきます。淋しいという感情を伴いながら。

今は、ゆっくりと、まずは白湯を飲むことにしています。
カップに注いだ熱湯が自然に冷めていくのに任せながら、
まず一杯。少し渇きが癒えたような感じがします。

しばらくすると、渇きが再び尖鋭化してくる。
そうすると、同じように、もう一杯。

またしばらくして渇きの尖鋭化が感じられる。
先よりは長い時間をかけて。

1時間ほどかけて、約1リットルの白湯を飲んでいます。
時間をかけて、身体の出力があがっていくのを感じている。
なので、若い頃よりずっと「細やかな身体」になっています。


コーヒーを飲んだりするのは、こうした経過を経て身体の出力が十分上がったと感じられてから。

早い段階でコーヒーやお茶を飲んでカフェインを摂取すると、もっと速く出力があがるように感じられます。ですがそれは薬物による錯覚です。

本当は身体は、まだ十分に起き上がっていない。だけど、起き上がったような感触にはなってしまっているので、そのように身体に命令を下してしまう。そうすると、無理が生じて疲労の蓄積が大きくなる。

ただ、現在の忙しい社会では、身体が十分に起き上がるのを待っている余裕はなかなかありません。たとえ錯覚であったとしても「起き上がった感」が欲しい。結構、切実です。

無理をすると疲労が重くなることはわかっていても、そうしないではいられない強迫観念があります。
「楽になりたい」と願うようになってしまいます。

これは「よくないこと」です。



感じるままに。