見出し画像

「まんなか」はどこ?①

最初の投稿で、私は自分の「まんなか」を探すと書いた。

じゃあなんで見失っちゃったんだろう?

それを自分で整理するために、書いてみることにした。


輝かしい幼少期?

母に聞くところによると、私は小さい頃から周りに褒められて、期待に応えてみせていたらしい。

例えば幼稚園の発表会。当時私がいたのは北海道の中央に位置する小さな町だったけど、先生たちの指導の熱意が半端じゃなかったようだ。私が出たものでいうと、登場人物が5人くらいの劇、3人の女の子だけで踊る演目、どれもかなりの力の入れようだった(ビデオにおさめられたものを見る限り、いま私の子どもたちが通う幼稚園のものとは比べものにならない。ひどいかしら?でも本当)。それらに私は主人公として舞台に立ち、きちんとセリフを覚えてやり遂げ、ダンスも完璧にやりきった。手についたリボンがふっとんでも気にする素振りもなく踊り続けているのを見て、祖父母をはじめとした周りの人たちから称賛された覚えすらある。

でも、特に劇に関しては、本当はやりたくなかったのをうっすら覚えている。「本番も涙目になってやっていた」という後日談めいたものを聞かされたのはいつだったろう。

きっとこの頃から、どれほどかわからないけれど両親も私に対して何かしらの期待をし始めていたと思うし、私もそれに気付いていた。


記憶にございません

そして迎えた小学校時代。父の転勤で、札幌近郊の町に引っ越した。当然友達はいなかったけれど、前述の輝かしい幼少期の成功体験のおかげか、特に不安もなく小学校生活を楽しんでいた、はずだ。友達もできた。毎日きちんと外で遊んでいた。

ところが引っ越してきて半年後、両親は元からそのつもりだったのか、わらじ虫が大量発生する借家住まいに嫌気がさしたのか(確か前者だったと思うけれど)、隣の校区に中古の家を買い、引っ越しを決めた。

私は転校生になった。

きっと両親は思っていたはずだ、私なら大丈夫だと。実際、ほとんど大丈夫だった。家の隣には同級生の女の子が住んでいたし、近くの公園などで遊んでいた記憶がある。

でも、学年が上がるにつれて、特に3年生あたりから、楽しかったできごとみたいなものがほとんど思い出せないのだ。


夫に聞くと、小学生のときは釣りにハマり、図書館に通ってはフライの作り方の本を読み漁っていたとか……なんと言うか、私からすれば、小学生にしては(だからこそ?)自分の「まんなか(好き)」に正直すぎるほどのエピソードに、だから今のあなたがあるのねと納得するしかない。


だから、普通、はよくわからないけれど、私には小学生なりの楽しかった記憶がないのだ。

クラス替えがきっかけだったのか何なのか、私は友達と遊ぶことが減り、家で1人で過ごしていたようだ。もうこのあたりも自分の記憶は曖昧だ。

でも、一緒に遊びたいと思っていたほとんど唯一の子へ私なりにアプローチしたとき、その子の家の近くに住んでいる子から「◯美は私と遊ぶから、遊んじゃダメ」と我が物顔で言われたことはハッキリ覚えている。

小学生女子あるあるなんだろうな、と今では思える。

でも当時の、輝かしい幼少期を過ごした私には、そうした自分を拒絶する言葉は、ショックだったし、多かれ少なかれ育まれていたプライドも傷ついた出来事だったのではと思う。

そう、結局私は、私自身を否定されることに慣れていなかった。いつでも歓迎されて、受け入れられてきたのだから。


私は学校に行くと、図書室で過ごすようになった。

別にいじめられていたわけでも何でもない。

私は逃げたんだと思う。

今となってはそれが私の選択だったと、自分の気持ちに正直な行動をしたんだねと、今なら認めてあげられるし、褒めることだってできる。

でも、私はまだ小学3年生だった。なぜ自分がそうしているのか説明するなんてできなかったし、家にいることが多くなった私を心配する母に勧められるままにミニバスの少年団に入ってしまったのも、仕方のないことだった。

母は私が友達と遊ばないことを不安がったし、それをよしとしなかった。しかも私は母にとって、いつでも誰にでも、褒められるしっかり者の長女だったから余計だったのかもしれない。それに、私もどこかで「遊べる友達がいないことはさみしい」と思っていたはずだから、しぶしぶ従った。

バスケを始めたことは、私にとってある意味救いになったし、輝かしい幼少期を取り戻すかのように見える瞬間もあった。私はうまくそこに適応してるかのように見せることに力を尽くしたし、何より周りの期待に応える程度の技術もそこそこ身につけた。

つまり、頑張ったのだ。

まったくやりたくないことをやらされていた、という感覚はないが、自分の気持ちにいつでも正直だった覚えはない。いつも心にフタをして、見ないようにして、ときには押し殺していたこともあったかもしれない。

本当は練習に行きたくない日もあった。

本当は1人で本の世界に入り込んでいたかった。

本当は何か作ったり描いたりしたかった。


でも、それらを強く主張することができなかった自分の弱さは、今でもなかなかNOと言えない私が一番わかっている。それまでは自己主張しなくても、私の周りの世界はとても優しかったから。欲しいものを欲しいと言わなくても、与えてくれる人がすぐそばにいたから。

ところが一歩外へ踏み出すと、これまで当たり前だったことがそうじゃなくなるんだと、私は気づくことになる。

このときから、自分の気持ちよりも周りの期待に応えようとする私がつくられていったと言えると思う。


ミテミヌフリ

自己表現をしない選択を続けていると、どんどん自分の気持ちに気づかなくなっていって、たまに出てくる感情にフタをするようになる。

つまり、見て見ぬふり。

小学生での経験を経て、私は周りの人たちの「私に対するイメージ」「私をどんなふうに見ているのか」を敏感にキャッチして、そういう私という人間を形成していった。内的にも外見も、周りの人たちのイメージ=私があるべき、なりたい姿だというふうに思い込んでさえいた。

その思い込みが私自身を縛って、高校生になったときには完全に身動きとれなくなっていた。

卒業アルバムの写真にそれが如実に表れていると、見るたびに思う。口角の上がりきらない、何かを意識している、笑顔と言えない笑い顔。

卒業と同時に家を出て、大学からは道外で一人暮らしを始めた。私は逃げた。あの図書館のときと同じように逃げたのだった。



思えば、このときから私は自分の「まんなか」を探す旅を始めていたのかもしれない。ただ目指したのが環境の変化であって、環境さえ変えればこの息苦しさから解放されると思っていたから、「まんなか」へはだいぶ遠回り、もしくは180°反対方向に行っていた気がしないでもない。


迷走はまだ続く。

長くなったので、今回はここまで。


もしここまで読んでくださった方がいたなら、ありがとうございます。

続きはまた書きます。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?