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書きたいことメモ

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書きたいことのメモを連ねていく。 書けるときに書きたい。書けないかもしれないし、書かないかもしれない。だけどわたしの中にある言葉。
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苗字と自己同一性のはなし

体系的に学ぶということ

いろんな人に可愛がって、愛してもらっているなとふと感じる日々である。
自分じゃなくてもとか、自分なんてとか、彼らを前にそんなことは言えないね。

友達100人できるかな的な考えには馴染めない。誰とでもあまねく仲良くだなんて吐き気がする。苦手な人と無理くり付き合ってストレスを感じるより、適切な距離を保って多少そっけない態度したって、喧嘩にでもならなければいいと思っている。のだけど、たぶんそうは考えない人もいるのだね。

思い出深いできごとにおける自分と常日頃の行動は必ずしも一致しないような気がした。ふと。

〈境界線を破壊する〉は自分以外の誰かに不利益をもたらすことがあり得るから、口に出して言うのは気をつけなければならないしね。そう言うことが言えるのも、自分がそう言うことを言える立場にいるからなんだ。(2/2)

たまに同性愛者なの?とかトランスジェンダーなの?とか聞かれることがある(聞かれないまでも思われているのだろうと思う)。いや、違うんだ、わたしは境界を越えたいのではなくて境界線の上に立っているのだよ。あるいは境界線を破壊してしまいたいのだよ。と思いながら、うまく話せない。(1/2)

「わたしは悪くない」と常に思っていなさい、という教え。

オコっているか、イカっているか

前にシンデレラのガラスの靴と自己同一性の話をしたのだけど、最近になって改めて思うのはあの話はガラスの靴というシンデレラ個人の外部にアイデンティティがあったからよくわからなくなってしまうんだね。とはいえ内面などという無形のものにアイデンティティを求めても結局よくわからないのだが。

ありがとうと言われたいし見返りはほしい。「善意100%」を謳うよりよっぽど健全だと思っている。

・理不尽は人を選ぶという話

・「最後にわたしたちがあきらめなければならなかったことは、わたしたちがもっていた、たったひとつの力。そうして誰にとっても力ではなくなった。」(これは心の奥底にずっと抱えている言葉だけど、この言葉について自分の言葉で語ることはまだできないし、今後できるのかもわからない。)

・くたばれ自己責任論