石川県立金沢商業高校
行きやすさ ★★★★★
マニアック度 ☆★★★★
営業時間 -
定休日 -
清次郎は学費を出してくれていた実業家と諍いを起こし明治学院を中退して東京から金沢に戻り、以前通っていた金沢二中に復学します。
しかし先の件で清次郎の母方の叔父も怒り心頭。
幼少時代は順調だった西茶屋街の祖父の店の経営は既に傾いており徐々に学費の捻出も出来なくなってついには二中も退学することに…
そんな状況もあり叔父としては清次郎には一刻も早く働いてほしいという願いで入学させたのが、今回紹介する金沢商業高校になります。
学校の歴史
現在の校舎はくらしの博物館前の大通り沿いから徒歩で15分程度。県立図書館からは5分程度の小立野エリアにあります。
周りはお寺や学校などが点在している静かな環境でした。
金沢商業の創立は1900年(明治33年)。
創立してしばらくは兼六園内にあった博物館の一部を仮校舎にしていましたが、建物の老朽化や返還期限も迫っていたため旧西町にあった公会堂(現在の尾山神社のすぐ近く)に移転します。
その後きちんとした校舎が出来たのは1904年(明治37年)の10月。
場所は彦三(ひこそ)町。ひがし茶屋街と金沢駅の間にあり浅野川もほど近く、現在の高校のある場所からはだいぶ離れた所にあったんですね。
その彦三町の旧五番丁と六番丁に跨る位置に校舎があったようで、現在支援事業施設になっている建物の前の歩道には石碑が建っています。
石碑にもあるように1927年(昭和2年)4月21日未明に起きた彦三大火によって校舎もその被害を受けてしまい、新校舎として建設途中だった小立野の校舎に急遽荷物を運びこんで学業を再開したという歴史があります。
清次郎が入学したのは1914年(大正3年)なので彼は彦三町の校舎に通っていたことになります。
大火によってこの辺りにあった武家屋敷なども焼失してしまったので、清次郎も見ていた景色となると橋を渡った先にある「あめの俵屋」本店あたりでしょうか。
金商時代の島田清次郎
1914年の4月から金商に通い始めた清次郎。
しかし商人になりたくない清次郎は普通科の学校に通わせてくれと叔父に懇願しますが聞き入れられませんでした。
金沢二中や東京の明治学院とも違う校風、学科の内容やレベルの違いにすっかりやる気をなくした清次郎は教師生徒を馬鹿にした態度を隠しもせず学校生活を送ります。
生来言われている傲岸不遜という清次郎に対しての人物評が出始めたのもこの頃から。
同級生の話では『色は浅黒く精悍な風貌でたえず「中央公論」かなんかの雑誌を小脇に抱え、自信に満ちた態度で口数も少なかった。』と清次郎の様子を邂逅しています。
同級生より上級生とばかり遊んでいただとか、前の席でも気にせず授業中教科書を立てて堂々と小説を読んだり書いたりしているにも関わらず国語や英語の授業では先生も舌を巻くほどの実力を見せたりもしていたそう。
また清次郎に弁論大会の入賞経験があることは入学当初から周囲に知られていたそうで在学期間1年の短い間に校内の弁論大会に3回、県内の小松中学での大会に金商代表として参加、学生連合大会には東大生や石川四校生の中に混じってその弁舌を振っていました。
清次郎の演説を聴いたことがある卒業生によると、
「彼の音楽的な美しい言葉のリズムと熱情的な響きは、石井漠のバレーや先代幸四郎の素襖(すおう)落としにも似た魅力を持っていた。」
だ、大絶賛オブ大絶賛…!!
石井漠はモダンダンスの先駆者。幸四郎は言わずもがな歌舞伎界の名優。おそらく7代目の事を指していると思われます。
学校の記録にも清次郎が論じた「安心立命の方法」という演説に対しての批評が残っています。
創作活動のスタート
金商は商人を目指す学生が多く通っていましたが文学熱の高い人が他の学校よりも多かったそうで、文芸部の延長で「会誌部」を発足して部活動で校友会を発行したり、卒業生在校生が入り混じり短歌や小説の同人誌を発行していました。
金商に入るまで文学に全く興味がなかった清次郎でしたが同級生の橋場忠三郎という生涯唯一の親友と呼べる人物(最終的に清次郎の振る舞いにより絶縁してしまいますが…)と出会い、彼の影響で急速に文学にのめり込んでいきます。
忠三郎の自伝の中で自身は「もう花袋や白鳥や秋聲を遠ざかっていたけれど」そういった自然主義の作品を読んできた土台があり「謂ゆる偉大な文芸よりももっと型の小さい身近なものを愛する傾きがあった」と語っていますが、彼とは対照的に清次郎は自然主義の作家は独歩と藤村以外ほとんど読まず、ドストエフスキーやツルゲーネフ、ゲーテなどの海外作品が特に肌にあったようで当時新潮社から発売されていた翻訳版を片っ端から読んでいたと記されています。
数年後に海外に渡航するのもこの時期に海外の作品に感化された影響が少なからずあるのでしょう。
そのうち2人は読むだけではなく自分でも作品を書いてみたいと思うようになり、見様見真似で形にして雑誌に応募するようになっていきます。
同時期に清次郎は忠三郎と二中時代の学友や先輩達などと共に同人活動を開始。
金商在籍中に処女作である「若芽」(『潮』大正3年12月発行)や「復讐」(『憂汐』大正4年3月発行)、「ある日」(『アイドール』大正4年5月)など自作の小説を発表します。
何号まで発行されたのかは未確認なのですが『憂汐』は既に地元では名士的な存在になっていた室生犀星も詩を寄稿している記録が残っています。(ちなみに忠三郎の自伝ではこの頃に清次郎と二人で犀星の下を2,3回訊ねたが他にもいる文学少年たちの1人でしかなく、碌に相手にしてもらえなかったと書かれています。恐らくこれが清次郎と犀星初めての出会い。)
上の散文は『憂汐』の表紙のタイトル右下にローマ字表記で掲載されているものなのですが、なんとな~く清次郎っぽいような…???気がするのは私だけですかね?…
『憂汐』は石川近代文学館に収蔵されていて複写許可がでたのですが、清次郎の作品ページと表紙奥付だけしか頼まなかったのでもしかしたら目次や中表紙に作家名記載されていたのかも!?と今現在進行形で後悔しています…現物を見れない複写依頼こういう事起こりがち…
『島田清波』作『三人』の行方
上記とは別に1988年5月9日の北國新聞に『島田清次郎 15歳で処女小説 金商高校友会誌に短編 社会への不満を描く 小林北陸大教授が発見』という見出しの記事があり、1914年発行の金商校友会誌16号に掲載されている「島田清波」というペンネームの作者の作品「三人」が清次郎の作品である可能性が高いというコメントと共に、作品の掲載ページの一部が写真で紹介されています。
2023年に「島田清次郎の初期作品について」を発行するにあたり調査した際、金沢商業高校に2019年までは会誌が保存されていたという調査記録があったので「三人」も収録するつもりで2023年12月に学校にチームリーダーが閲覧の問い合わせたのですがなかなか回答が返ってこず、ようやくきた返答は「会誌が無い」というまさかの返事…
その後追加調査で私の方で2024年の8月に金商菫台同窓会の事務局の方に問い合わせをしたのですが、「こちらで管理している資料は1905年のものはあるが1906年~1949年までがなく1950年~1959年の菫台時報は残っているのでお探しの1914年のものは無い」との回答…
そして「三人」を発見した小林輝冶先生の集めた資料リストに「校友会誌」があったので確認してみたのですが金商のものは既に清次郎デビュー後の大正10年のもので清次郎に関する記載は確認できず、それより古い時代のものは他の学校の校友会誌でした。ややこしや…
作品の内容は「もう少し規律的に」と説教する男、それを言われている男、そのやりとりを傍観する男3人の会話が続く小話ですが、それは清次郎の実体験とも重なる事も彼の作品であるに違いないという裏付けになっています。
というのも、清次郎は弁論大会で学校や当時の文部省を批判する内容の発言を度々しては校長室に呼び出され、ついには1カ月の停学処分を受けています。
しかも運悪くその停学期間中に行なわれた試験を受けられないままゼロ点評価を下され、元々のモチベーション低下に加え執筆作業に没頭して学業成績が軒並み低下していた清次郎は簿記と理科を落第してしまうことに…
その後校長と清次郎で個人対談が数回にわたって行われた結果、自主退学という形で清次郎は金商を1年で退学することになりました。
しかし「地上」発売後、同級生が発刊祝賀会を開こうと打ち合わせの為に清次郎を自分が住んでいた神戸まで呼び寄せた際「表向きは自主退学になっているが実際は校長に詰め腹を切らされた論旨退学だった」と清次郎自身が語っていたという記録が残っています。
現実はこうした結末になってしまいましたが「三人」の結末はどういったものなのでしょうね?
金商菫台同窓会の担当の方に同窓会参加者の方へも校友会に関する情報提供をお願いし快諾いただきました。
「三人」は引き続き調査続行です…アキラメタクナイ!!
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