日比谷公園(東京都千代田区)
行きやすさ ★★★★★
マニアック度 ★★★★★
営業時間 常時開園(サービスセンター 8:30~17:30)
定休日 なし
日比谷公園は伊達政宗の自宅跡を造成し1903年(明治36年)6月1日に開園した日本初の近代的洋風公園です。
ドイツ留学経験があった本多静六が欧風公園を手本にして花壇や噴水、音楽堂や運動場などが作られました。
現在は園内に図書館やカフェもできて土日はライブイベント、クリスマスシーズンには露店やツリーが立ち並ぶクリスマスマーケットが開催されています。
園内を散策すると開園時の遺構や現在まで残っている建物をいくつも見つけることができます。
当時出来たばかりの日比谷公園に対する印象をかなり辛口で書いていたのは伊藤左千夫。そ、そんなボロクソ言わなくても…
当初は公園が出来るまでに時間がかかって市民からの批判もあったそう。
批判もありながらも日比谷公園を愛した文豪はたくさんいます。
その筆頭としてまず名前があがるのが夏目漱石と高村光太郎。
2人とも公園が開園した当初からある洋食屋「日比谷松本楼」を利用していました。
開園当初は他にも飲食店がありましたが現在も営業しているのは松本楼のみ。
当時と変わらないメニューを食べることもできます。
永井荷風は「腕くらべ」で、田山花袋は関東大震災の時の公園の様子を書いた「東京震災記」で日比谷公園の菊の花壇について触れています。
開園当初は樹木300種、草花135種が植えられましたが当時は予算不足で苗木だけだったそう。当時の写真を見ると確かに枝ぶりが今より悪く幹も細いです。
当時の作家たちも見た木々が120年以上経って育った姿を私たちも見ていると考えると感慨深いものがあります。
ただ今回の再開発工事で伐採されてしまうものもあるらしく、どうにかうまく残していってもらいたいものです。
広津和郎の「正宗白鳥と珈琲」や徳田秋聲の「同胞三人」、「結婚まで」、「誘惑」では散歩や歓談の舞台で日比谷公園が登場しています(秋聲作品にはここにあげた作品以外にもたくさん登場していました)
当時の様子が分かる写真や絵葉書はこちら。
また、国立映画アーカイブで公開されている「公衆作法 東京見物」の31:28から大正15年当時の日比谷公園内を散策する映像が見られます。
先に紹介した水飲みを実際に使用しているシーンや令和では豪快すぎて利用NGであろう公園遊具が見られます。
それ以外にも当時の交通事情の様子や上野動物園、帝国図書館内などが出てくるのですがマナー啓蒙用だからか映画とは違う生々しさがあり、とても見ごたえがあるので時間がある方は通して見るのをお勧めします!
1923年令嬢監禁容疑の裁判で信用を失って執筆依頼が途絶えてしまった清次郎は裁判から5ヶ月後に発生した関東大震災によって富ヶ谷に建てた家も倒壊してしまい、住む場所を失ってしまいます。
その後しばらくは金沢と東京を行き来する日々を送っていたようですが徐々に金銭も底をつき、1924年の7月に清次郎は宿のあてもないまま上京します。
しかしかつて「地上」を発売した新潮社は原稿を受け取るどころか温情も無く門前払い。
一度会ったきりの相手を呼び出だして手持ちの万年筆を売りつけたり、徳田秋聲や加納作次郎などかつての僅かな縁を頼りに家にあがりこんでは追い出される放浪生活を送ります。
1924年7月29日。気温33.5℃の真夏日。
「帝国ホテルに飯食いに行ったが入れて呉れない。金は2、3円持って居った。島田だと言っても待遇して呉れない、それでボーイを殴って逃げて来た、5、6人で追駆けて来て日比谷公園の所で私を殴った」
とその日の出来事を清次郎は語っています。
殴られ流血した血痕を浴衣につけたまま、清次郎は中外日報の記者の箸本太吉の家がある池袋を目指し人力車に乗り込みます。
そして日付が変わった7月30日深夜2時半頃、爆弾事件の捜査で特別警備していた警察に職務質問された清次郎はそのまま巣鴨署に連行されていきました。
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