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日比谷公園(東京都千代田区)

行きやすさ  ★★★★★
マニアック度 ★★★★★
営業時間   常時開園(サービスセンター 8:30~17:30)
定休日    なし

日比谷公園は伊達政宗の自宅跡を造成し1903年(明治36年)6月1日に開園した日本初の近代的洋風公園です。
ドイツ留学経験があった本多静六が欧風公園を手本にして花壇や噴水、音楽堂や運動場などが作られました。
現在は園内に図書館やカフェもできて土日はライブイベント、クリスマスシーズンには露店やツリーが立ち並ぶクリスマスマーケットが開催されています。

筆者の日比谷公園デビューは10数年前頃に行ったクリスマスマーケット。以来毎年行ってはクリスマスを全身に浴びています。

園内を散策すると開園時の遺構や現在まで残っている建物をいくつも見つけることができます。

現在の園内マップ。2024年3月現在大幅な改装工事中となっており第二花壇の辺りは立ち入り禁止になっています。
開園当時からある水飲みその1
当時は水道部分に鎖が巻かれた先に金属製のコップがぶらさがっており、それに水を注いで飲んでいました。
水飲みその2。こちらは後年補修された形跡がありました。
当時は園内馬車が通行可能だったんですね。
水飲みと同じデザインの照明灯
こちらも当時のものが現存しています。アーク灯10基、ガス灯70基設置されていてそれぞれ半夜灯(深夜は消灯)、終夜灯の半々ずつの運用だったようです。
点灯まで粘りました。
1カンデラ=ろうそく1本分の明るさなのでろうそく1200本分の明るさ。
ガス灯は大きさにもよりますがおおよそ70カンデラ位らしいので当時のアーク灯はかなり明るく感じられたはず(今は当時と違い普通に電気が通っています)

当時出来たばかりの日比谷公園に対する印象をかなり辛口で書いていたのは伊藤左千夫。そ、そんなボロクソ言わなくても…
当初は公園が出来るまでに時間がかかって市民からの批判もあったそう。

批判もありながらも日比谷公園を愛した文豪はたくさんいます。
その筆頭としてまず名前があがるのが夏目漱石と高村光太郎。
2人とも公園が開園した当初からある洋食屋日比谷松本楼を利用していました。

看板側にある大きな樹が首賭けイチョウと呼ばれている大木。2024年3月撮影。
当時の熱意も実行力も凄い。現代だったらさっさと切られてしまいそう…

開園当初は他にも飲食店がありましたが現在も営業しているのは松本楼のみ。
当時と変わらないメニューを食べることもできます。


メニューに高太郎の詩の一節がありました。夏目漱石メニューをセレクトするならビフテキでしょうか。
2021年に来店したのですがどれも美味しそうで選べない人向け用(?)『選べるビッグプレート』という大人様ランチセットを食べました。オムライスにかけるソースとメインが選べます。
私はカレーとカニクリームコロッケにしました。


永井荷風は「腕くらべ」で、田山花袋は関東大震災の時の公園の様子を書いた「東京震災記」で日比谷公園の菊の花壇について触れています。
開園当初は樹木300種、草花135種が植えられましたが当時は予算不足で苗木だけだったそう。当時の写真を見ると確かに枝ぶりが今より悪く幹も細いです。
当時の作家たちも見た木々が120年以上経って育った姿を私たちも見ていると考えると感慨深いものがあります。
ただ今回の再開発工事で伐採されてしまうものもあるらしく、どうにかうまく残していってもらいたいものです。

開園当初からある「第一花壇」は西洋風庭園でチューリップやパンジーなどが植えられていたそう。撮影した2024年3月現在も同じ花が植えられていました。
また大正5年から現在まで「菊花まつり」も開催されています。


広津和郎の「正宗白鳥と珈琲」や徳田秋聲の「同胞三人」「結婚まで」「誘惑」では散歩や歓談の舞台で日比谷公園が登場しています(秋聲作品にはここにあげた作品以外にもたくさん登場していました)

雲形池の左にある藤棚が「同胞三人」に書かれているものだと思われます。
日比谷公園は開園当初は特にツツジの名所として知られており、「ツツジ山」と呼ばれるエリアは藤棚の奥側にあります。GWの時期は色とりどりのお花で素敵でしょうね!
日比谷公園のシンボル「鶴の噴水」
日本で3番目に古いものになります。台座は開園時は銅製でしたが太平洋戦争の金属回収で今の石造のものになりました。
この心字池も開園当初からの面影を残す伝統的な日本庭園です。ライトアップされている箇所は江戸時代の濠の一部。池の中央には亀の噴水があるんですが暗くてわからないですね…

当時の様子が分かる写真や絵葉書はこちら。

また、国立映画アーカイブで公開されている「公衆作法 東京見物」の31:28から大正15年当時の日比谷公園内を散策する映像が見られます。

先に紹介した水飲みを実際に使用しているシーンや令和では豪快すぎて利用NGであろう公園遊具が見られます。
それ以外にも当時の交通事情の様子や上野動物園、帝国図書館内などが出てくるのですがマナー啓蒙用だからか映画とは違う生々しさがあり、とても見ごたえがあるので時間がある方は通して見るのをお勧めします!


1923年令嬢監禁容疑の裁判で信用を失って執筆依頼が途絶えてしまった清次郎は裁判から5ヶ月後に発生した関東大震災によって富ヶ谷に建てた家も倒壊してしまい、住む場所を失ってしまいます。
その後しばらくは金沢と東京を行き来する日々を送っていたようですが徐々に金銭も底をつき、1924年の7月に清次郎は宿のあてもないまま上京します。
しかしかつて「地上」を発売した新潮社は原稿を受け取るどころか温情も無く門前払い。
一度会ったきりの相手を呼び出だして手持ちの万年筆を売りつけたり、徳田秋聲や加納作次郎などかつての僅かな縁を頼りに家にあがりこんでは追い出される放浪生活を送ります。

1924年7月29日。気温33.5℃の真夏日。
「帝国ホテルに飯食いに行ったが入れて呉れない。金は2、3円持って居った。島田だと言っても待遇して呉れない、それでボーイを殴って逃げて来た、5、6人で追駆けて来て日比谷公園の所で私を殴った」
とその日の出来事を清次郎は語っています。

帝国ホテルから一番近い正門である日比谷門
日比谷通りを挟んだ右側の建物が帝国ホテル。
現在の姿は戦後改築されたもので清次郎が訪れた時代の外観はウィキペディアで見ることができ、玄関部分は現在明治村に移築されています。
日比谷門の反対側、霞が関方面からの出入り口霞門。門柱は江戸城の門の石を再利用して作られました。

殴られ流血した血痕を浴衣につけたまま、清次郎は中外日報の記者の箸本太吉の家がある池袋を目指し人力車に乗り込みます。

そして日付が変わった7月30日深夜2時半頃、爆弾事件の捜査で特別警備していた警察に職務質問された清次郎はそのまま巣鴨署に連行されていきました。

有楽門から見る銀座の灯り。清次郎も他の同時代の作家たちと同じく銀座にはよく出かけていました。
人力車に乗り込んだのが公園からだったのか銀座などの繁華街で流しを捕まえて乗り込んだのかは定かではありません。

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