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野町小学校跡(金沢未来のまち創造館&野町公民館)

行きやすさ  ★★★★★
マニアック度 ☆☆★★★
営業時間   9:00~21:00
定休日    土・日・祝日・お盆・年末年始


行き方

金沢駅スタートなら金沢周遊バス「広小路」停留所が最寄り(左回りルートの方が早く着きます)
他、『「片町・広小路」経由』表示のあるバスでも周遊バス1日乗車券を利用して行くことが可能です。ただし、同じ停留所名でも周遊バスの停留所とは位置が若干異なるのでそれだけご注意を!
最寄り駅は北陸鉄道石川線「野町」駅徒歩約6分の距離。
「野町」駅は北陸鉄道石川線の始発駅。
2駅先の「新西金沢」駅には清次郎の生まれ故郷の美川へ向かうIRいしかわ鉄道の「西金沢」駅が目の前にあり、乗換が容易なので「美川と併せて小学校や西茶屋エリアを見学したいよ~!」という場合は行程によっては金沢駅スタートよりも便利ですのでうまく使い分けてみてください。

それではバス停が点在している野町広小路交差点を起点として「南大通り」を野町駅方面に向かって進みます。
と、書いたあとでどうせなら清次郎の通学路イメージで西茶屋資料館スタートで写真を撮るべきだったのでは?と今更の気づき…
実際行かれる場合は丸刈り姿に着物姿のちいちゃい清次郎くんを想像して歩いてみてください。

そう、前置きが長くなりましたが今回訪れる小学校は清次郎の母校である野町小学校になります。

途中にある「森紙店」さん。
金沢市内に唯一現存する石葺き屋根の建物で戦前までの金沢ではこの屋根がスタンダードだったそう。

森紙店さんの隣のローソンを過ぎて郵便局を過ぎ、和菓子の諸江屋さんも通り過ぎひたすら直進。

緑色の「川北病院」の看板が見えたら左折します。
角を曲がってすぐに諸江屋さんの旧店舗があります(写真失念…グーグルマップさんより)
この辺りは昭和43年の町名改称の前までは「三間町(さんげんみち)」という名前だったそうでそれを風化させぬよう旧諸江屋さんの建物脇に石碑が建っています。
左手前の電柱脇の木造建築は「米永仏壇」さんの旧店舗。全体的に昭和の薫り漂う懐かしい道。
先ほどの道を直進すると急に開けた特徴的な交差点に出ます。
「六斗の広見」と呼ばれていてお城の火除けや防御のためのスペースだったとか、辻説法という今でいう街頭演説のようなものを行なう場所だったなど諸説あり。
上の写真の対面側。
ここは旧鶴来街道でもあり、白山の麓の町へ向かう要路でもありました。
私が初めて石川県に観光目的で訪れたのは金沢でなく鶴来だったんですが、古い街並みや白山比咩神社の苔むした階段がすごく素敵だったのが印象に残ってます。
六斗の広見に出る横道の奥まった先にあるのが今回の目的地「野町小学校」跡です。
(写真左側の赤い屋根は駄菓子屋さん)
到着!
小学校の文字が消されてるの寂しい…
門をくぐって右側にはプールが。
防火水槽として残しているのかな?脇は職員用らしき駐車場でした。

野町小学校の歴史

野町小学校が開校したのは1872年(明治5年)。
開校時の名前は「野町尋常小学校」でした。
当時は若干校舎の場所が違ったようですが1909年(明治42年)に移転し現在の場所に。
2014年に児童減少のため近隣の弥生小学校と共に統合され、新たに泉小学校が開校したことにより野町小学校は閉校となりました。
泉小学校は弥生小学校跡地に建造され野町小の校舎は残り、現在に至ります。

見て!この立派な石碑を!
石碑は裏側にこそ歴史あり。

忘れてはいけないのがこの野町小学校は金沢3文豪の1人、室生犀星の母校でもあります。
犀星記念館の年譜によると犀星は1895年(明治28年)に入学。6年制ではなく4年制で卒業したそうです。

校舎脇に石碑がまとめられています。
昭和27年には犀星作詞の野町小校歌も制定されています。
裏側。QRコードがついている石碑初めて見たかも。

一方、清次郎が野町小に入学したのは1905年(明治38年)で1911年(明治44年)に卒業しています。
旧校舎と新校舎の切り替わりと在学期間が重なるので清次郎は両方の校舎で勉強したんですね!

犀星の方が清次郎より10歳年上なので清次郎が新校舎で勉強していた頃、犀星は作家を目指し上京していた時期にあたります。
そのためおそらく清次郎が野町小学校に通っていた当時はお互いの面識はなかったと思われます。
その後清次郎が上京の際に犀星に「地上」の原稿を送ったり、震災後に借金のお願いに行ったりと細々とした交流はあったものの犀星側はかなり嫌悪感を抱いていた様子。

石碑群の脇に掲示されている案内板。
2021年なのでコロナ禍真っ只中の時期での閉校だったんですね。まだ清次郎の聖地巡礼もお墓参りに初めて行った頃で当時小学校までは頭になかったなあ…閉校前の様子が見れなかったのは残念です。
余談ですが泉鏡花と徳田秋聲の母校である馬場小学校も2024年の3月をもって閉校となりました。あちらにも作家作品の一文が掘られた石碑があるようですね。

いやしかし石碑周りには清々しいほどに島田清次郎の名前がありませんな!

誇れる偉人というにはちょっと物騒過ぎ、かと言って反面教師では済ませられない複雑さを抱えた人なのでまあ無理もないかな。という反面、せめて名前だけでも…という気持ち。

小学生時代の清次郎

去る2023年の10月。
美川呉竹文庫の清次郎展見学の際に清次郎の研究をされている方にこの野町小学校跡に連れて行っていただき、校舎を再利用して運営されている公民館にもご挨拶に伺いました。
その時たまたま職員の方に美川出身の方がいらっしゃり、話に花が咲いて清次郎の小学校時代の資料などがあればいただきたいとおっしゃっていただきました。
(もともと公民館のHPにはひっそり清次郎の名前があるんです)

野町公民館入口。校舎の面影が色濃い。

それならばと資料やエピソードを改めて探し直してみると清次郎の小学校6年間の成績表が残っていました。

「修身」は儒教に基づいた当時の『こうあるべき国民性』を説く科目で、現代の「倫理」や「道徳」に似たものだそうです。「操行」は素行の良し悪し。
『美川文化誌』に掲載されている成績はさらに国語は読み方と綴り方に項目が分かれている記載があるので上記の表は総評で、他の科目も細分化されていた可能性があります。

上記の成績表を発見、発表された小林輝冶先生は清次郎の当時の卒業証書も当時目撃しており(現在所在不明)、そこに「第壱号」とあることから清次郎は野町小学校を首席で卒業したのだろうと推察されています。在学中は級長を勤めたこともあったとか。
恐らく6年生時の成績に対してでしょうか?
「成績甚佳シ。去乍ラ(さりながら)書方図画二科ニツキ一層ご奨励相成度候」という先生のコメントが成績表に残されています。

小学生時代に清次郎とよく遊んでいた「北國新聞」の主筆だった林正義によると、1つか2つ上級生だった清次郎は父親を亡くし母親も仕事で忙しい境遇にもかかわらず「少しでもさびしそうな様子は見せたことがなく、当時の堅気な家庭の少年たちから見ると、相当多額の小遣いももらい、極めて自由な環境に恵まれていたようだった」と語っています。

また、夏は清次郎が男友達を誘って金石や小舞子の海水浴場へよく出かけたのだとか。
金石は昔は海水浴場があったようで金沢の六枚町から電車も通っていたそうですが、現在は廃線となり、海水浴場も港に変わってしまいました。

小舞子は同郷の先輩の徳田秋聲も「郷国の美景から 好きな温泉宿の話まで」という談話内で珍しく好意的な口ぶりであげている「日本の渚百選」にも選ばれている美景地。
こちらの記事でも駅舎だけですが少し触れています。
小舞子駅は1903年(明治36年)に海水浴シーズンのみ臨時停車する駅として開業しました。
海水浴と聞くと「日焼け!海の家!ビーチバレー!」みたいなイメージですが、元々日本人にとって海は漁場や神聖な場所でありレジャースポットという感覚はなく、海外の文化が持ちこまれ当初は湯治と同じ療養目的で広まりました。
明治時代の海水浴の姿は男性はふんどし子供は裸、女性は半袖短パンの水着もありましたがまだ襦袢姿も多い頃。
波打ち際に座り込んだり、海底に刺した棒につかまって海水に浸かったりしていたようで男女で遊泳ゾーンも区切られていました。

時代考証からみておそらくお小遣いで汽車に乗って金沢から海水浴に出かけていたであろう少年清次郎くん。
和気あいあいと友達と水泳を楽しんでいたのかと思えば、

「かれはいつも女子の海水浴場へ突入、裸体の女性群が逃げまどうなかへ動ずる色もなく、あたりをへいげいーー実際へいげいといった方が一番よく当たっているがーーそれでも目元や口元に野生的ではあるが、どことなく魅力的な愛情をひらめかすことを忘れぬ表情で、臆面もなく泳ぎまわるという始末だった。」

「同行の男性友達が迷惑を感じようが、感じまいが、一向気にかけるというようなことはなく、逆にそうした大胆不敵さを同行の友人に誇っているようなジェスチュアをとっていた。」

へいげいとは横目でにらみつけること。
oh...!なんというお騒がせボーイ…!
これは女子からもっとも嫌われるパターンだ清次郎くん…!

悪戯心というより『自分は同年代より女慣れしている大人』というポーズをとることで、友人たちにマウントをとると共に意識してか知らずかわかりませんが廓育ちという自分の中のコンプレックスをねじ伏せていたようにも思えます。

他にも小5の頃には気に入った年上の優等生の女性にばかり匿名でラブレターを送り、返事があるまで諦めなかった強心臓の持ち主だったという話も語られています。
成人してからの女性問題を一部資料では病気のせいとするものもありますが、少年時代からそのまま経験を重ねても改善することなく同一線上で行われているあたり生まれ持った気質なのでしょう。
清次郎の女性の好みはどちらかというと革新的タイプの才媛と終始一貫してますが、自分の家でもある廓で様々な境遇の芸妓を目の当たりにしていた事による影響を如実に受けて歪に形成された女性観に加え、更に元来の性格によりよく言えばポジティブ、悪く言えば自分に都合のいい様に理想化して夢見ている(そして理想とズレる事を許さない)なあと感じます。

まあ人の好みにとやかく言うのは野暮というもの。

未来のまち創造館は穴場休憩スポット

さて、公民館を出てもう一つの入り口へ。
こちらは「金沢未来のまち創造館」になります。

都内に多いレンタルオフィスやコワーキングスペース(当日飛び込み利用はNG)だけでなくプロ仕様の厨房も格安で提供している施設です。
県外の人も利用可能なようですし、ちょっとしたイベントやオフ会に利用するのもありかもしれませんね。

1Fは施設利用者以外でも利用できる「ノマチカフェ」があり、散策時の小休止に立ち寄るのもOK

入り口端末で事前注文・決済(キャッシュレスオンリー)してレシートに書かれた番号を呼ばれたら取りに行くセルフスタイル。
訪れたのが平日の夕方だったこともあり客は私1人で利用でした。
フリーWi-Fiもあったし施設も新しくてトイレもきれいだし、カフェは西茶屋街周辺に集中しているので混んでいて入れなかったり寺町寺院群を歩き回って小休止する場所として結構便利な穴場スポットかと思いました。

キーマカレーとアイスティー。
かなりマイルドですが別添えのスパイスで風味と辛味を調整して食べるスタイルで美味しかったです。
スイーツ系メニューもありました。
カフェ利用した2回目訪問は2024年の4月。食べ終えて帰るタイミングで出雲から能登地震ボランティアのマイクロバスがやってきて荷物など運び入れていました。

公民館には周辺観光マップも置いてありますのでマップ片手にちびっこ清次郎くんも歩いていたかもしれない学校周辺を散策してみてもいいかもしれません。

未確認なのですがもしかしたら金沢駅の観光案内所にも置かれているかもしれない…
清次郎の名前がバッチリ載ってますヤッター!

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