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波多野爽波の一句

セクト・ポクリットのこの記事を読んで、「波多野爽波の百句」(山口昭男著)を読みました
解説には豊かなエピソードと、波多野爽波自身の言葉、句会・吟行を共にした方々の言葉が多く引いてあり、臨場感をもってその教えを知ることができます
百句の中から、特に惹かれた句を読んでみようと思います


向うから来る人ばかり息白く

「ばかり」で切るか、切らないかで読み方が変わります

切らないとすると、向こうから来る人の息が白いという景になります
向こうから来る人は顔が見えるので、その白い息が見える、同じ方向に進む人の顔は見えないので、その白い息は見えないということです
けれど、「ばかり」がそれだけではない読みを求めます

季語「息白し」について考えます
「俳句歳時記」によると「冬季、大気が冷えることによって吐く息が白く見えること」
それほど寒い時期になったということですが、立項は「生活」です
例えば、今、私は酷暑の中にいますが、汗を拭く人、手団扇をする人を見て「あぁ、暑くなったなぁ」と思うだけではありません
「暑くなりましたねぇ」と相手に語りかける気持ち、「お互いに体を労っていきましょうねぇ」という相手に寄り添う気持ちがあります
「息白し」も同じでしょう
それほどに寒くなった、そして、その寒さの中に自分の、他人の命を見て、「あぁ、生きている」「生きていますね」と思う気持ちがあるのだと思います

解釈に戻ります
「息白し」には、他人の命に共感し共鳴することが含まれると考えて読むと、この句に描かれているのは、自分と同じ方向へ行く人々との共鳴・共感の定かでないまま、一人いる、一人進む孤独ではないかと思います

「ばかり」で切って読んでみます
人の姿と言えば、向こうから来る人ばかり、そして私は息白く歩いて/佇んでいる
こちらでは、自分と同じ方向へ行く人々はいません
向こうから来る人の姿の描写がないため、彼らはのっぺらぼう、影、記号のようでもあります
そこで、作中主体は自分の白い息を見ています
全き孤独が彼(彼女と読むことも誤りではないと思います)の命を際立たせています

自分の好みでいうと、ばかりで切る読み方が好きです
息白くの後には動詞が補われますが、切らない読み方だと向こうから来る人の動作、切る読み方だと作中主体の動作になります
向こうから来る人の動作だと動きの描写が重複します
切る読み方は登場人物も減り、景も解釈・鑑賞もシンプルになります

白い息を俳句への矜持と読むこともできるでしょう
この句は、昭和十七年の作、「舗道の花」などに収められています


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