長男が書いた作文1について

長男が学校の宿題で作文を書いた。youtuberのノリで「よかったらコメントしてね」と言ってきたので拝読させて頂いた。


ねったいぎょ

 ぼくの小学校には、ねったいぎょがいます。そのねったいぎょは、かなあみのようなヒレ、そして目のようなこぶをもっています。そのほかにもかなりほそいとげがあります。そしてねったいぎょはピンクいろのほっぺたがあります。ちなみに大きさはじぶんの手ぐらいでした。
さわりたいとおもいました。


1つ1つの文章を短く区切っているのは意図的ではないのだろう(作文のアイディアをメモする別の紙があり、そこに熱帯魚を観察したときのメモと思しき短文が複数書かれていた。本文の方はこの複数の短文の配置とつながりを整理して作られているように見えた)が、文章の意味は明瞭であり、接続詞の用法もおおむね正しい。

また、係り受けがしっかりしている点には正直驚いた。過去に受け持った生徒の中には、中学三年生の時点でこれよりよほど係り受けがめちゃくちゃな文章を書くような子供が何人もいた。うちの長男のライティング能力は既に一部の15歳を超えているとも考えられる。7歳児としてはまずまず十分なレベルに達していると言えよう。

言語の運用能力、という点で長男はかなり才能に恵まれているように思う。今後、ライティング、リーディングについて困難に直面することはおそらく無いだろうし、あるとすれば周囲が日本語を読めなすぎて腹が立つ、というようなコミュニケーション上の問題くらいだろう。

一方で、表現においてどうやら長男は凡庸であるように思う。長男は私と似たタイプの感受性を持っているので、現実の世界にあまり興味・関心がなく、入力のゲインがかなり低いように思う。抽象概念、表象の世界にメモリの大半を割いていることが原因だろう。

これは想像だが、彼はそもそも熱帯魚にあまり興味がないはずだ。教室の中にあるものの中で最も目立っているか、その時目に止まったものを題材に選んでいる。書きたい主題はそもそもなくて、作文を書くという目的のための手段として熱帯魚を採用しているに過ぎない。書きたいことがある、ということが表現者として一番の才能だから、彼には(少なくとも現時点では)表現者の才能が無いと私は思う。

彼の頭の中には膨大な量の内言が渦巻いていて、外部からの入力に注意を向けることが難しいはずだ。わずかな入力から生成される無限のフィードバックループが、微細な入力を塗りつぶしてしまっている。おそらく彼の世界には、季節の移ろいとか、雲が形を変える過程とか、木漏れ日の影が揺れるリズムなどが存在していない。認識していないからだ。

文章で表現をする人間にとって、現実世界への興味・関心は必須の能力で、これが無い、薄い人間は人の心を捉える表現を生み出すことができない。私にはできないことだが、いずれ長男が現実世界への興味・関心を持ってくれたら喜ばしい。


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