毎日健康生活

私は少し疲れている。

遠からず死んでしまうのだから誠実に生きる必要などないのに、惰性で真っ当な人間のフリをしている。面倒だから惰性に従って真っ当な人間のフリを続けておくのがこういう場合最善手だとは思うが、それを振り切って全部捨てたくなると思う時間が確実に増えている。

何でこんな生活を続けているかというと、尊厳を失うのが怖いからだ。もちろん貧乏も恐ろしいが、全方位からアイツはクソだと遠慮なしに言い募られることの方がもっと恐ろしい。私は周囲から多少なりとえらい、すごい、と思われて生きていたい。それが当たり前の人生だったから、そうでなくなったら多分私は私ではない何かに変わってしまう。

子供のいる生活には楽しい部分もあるのは事実だが、それと同じくらい面倒で厄介だというのもまた事実で、私はいま、疲れているので楽な方を選びたい。

自分の家に自分以外の人間が存在していることがストレスになる。しかし私は大人なので、子供達にストレスをぶつける訳にもいかんのだ。となると、どこかへ消えてしまいたくなる。しかしそれをするのも子供達に悪いではないか。

彼らにとって私の存在のデメリットが私の不存在のデメリットを上回る時がくれば、私は喜んで消えることができる。しかし、尊厳を失うのが怖いのだから故意にその状態を作ることも出来ない。居ない方が良い人間になりたいのに、居ない方が良い人間にはなりたくない。一片の曇りもなく矛盾している。困ったものだ。

「わたし」はドーナツの穴のようなもの。穴だけでは存在し得ず、取り囲むものたちによってその形が決まる。私の周りから家族が居なくなった時に、私という穴の形がどんなものになるか。まあ、あまり良い想像はできない。

それは多分、10代から20代の頃の私に似ているのだろう。誰もいない図書室。意味のわからない哲学書。新丸子のラブホテル。知ってるか?未来の無い女は本気のセックスをするんだぜ。そして、それは世界中のどんなものよりも美しいんだ。その直後に、世界中のどんなことよりどうでもいい仕事のために午後3時に出勤した俺が退勤するまでの2時間半。私の頭の中にだけある誰もいなくなった文明の遺構。宮益坂のゲームセンターで早押し連想クイズから生じる脳内物質。あの頃の冷え冷えとした生活も私は嫌いではなかった。むしろ懐かしくすら思う。あれは私の故郷だ。15歳の3月から続く長い長い春休み。でも、今更もう一度アレをやるのはちょっとイタいんだよな。

40代の私は、自分で捨てたものは二度と拾うことが出来ないということも経験から学んでいるので軽々に何かを捨てたりはしないのだが、スッキリしてえなぁ!というマイナスの欲望の高まりも感じている。疲れているからだろう。

この文章は1000字以上を費やして「最近ちょっと疲れている」と言っているに過ぎない。クソのような文章だ。老廃物をひり出しているという意味で、ただしく糞だ。本日も快便である。私は健康なのだ。

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