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夢の中で客観的になったのか?

 “歌系の趣味”をなぜ続けているのか、と問われて、「生き方を考えるために続ける」と、答えたことをきっかけに(この記事で紹介)、“歌系の趣味”にまつわるエピソードから自分観察してみようというテーマの13回目です。

本題に入る前の余談

 歌系の趣味から生き方を考える、は、ちょっと更新が開いてしまいました。
 実は、今年1番の大変革かもしれない(まだ24分の1くらいしか今年は経過していないのに)歌系趣味の変革があって、ちょっとそれに追われていました。

 平成9年に従兄弟に誘われて合唱を始めたことが、この歌系の趣味から生き方を考える、の原点です。しかし、その従兄弟と創立した合唱団は退団し、むしろ、退団したことで自由に接することができるようになって生き方まで考える趣味になった、という側面があります。

 平成9年という時間を見て、勘の良い方は気づかれるかもしれません。今年が25周年なのです。四半世紀。
 合唱団の運営で、20年の壁、というお話し聞いたことがあります。それは、みんなで意気投合して団体を作った。それが、新しい団員はそこそこいるものの、主要メンバーはそのまま年齢を重ねていく。そもそも、大抵は指導者の方が年齢は上。というわけで20年くらいで、指導者の引退、交代があり、団員の世代交代がある。これをうまく乗り切ることができると、団体としては存続。でも、うまく行かないと、なんらかの形で終了していく。
 いや、終了は悪い結果ではありません。100年以上の経歴の会社が多いのが、日本の特徴とされ、それは賞賛されていますが、時代に応じて変化をすることを優先すれば、必要な時に立ち上がって、時代が変わったら終了するのは、決して悪い道ではないと私は思います。
 従兄弟と設立した合唱団は、少々特殊でした。それは、創立時点の団員の平均年齢が若いこと。地元では「20歳代の合唱未経験者」が、新たな合唱団を作るのは奇跡とまで言われたこともありました。社会人合唱団は、作曲家が自分の作品を歌ってもらうために創立したり、高校や大学のOBOGが集まって、同窓会的にできたり、というのが主流です。後は、公民館などのイベントで集まって、そのまま団体として存続というパターン。これらは、合唱経験者だったり、やや高齢だったりするのがほとんどなので、「20歳代の合唱未経験者」が団体を発足するのは稀有だといえるのだと思います。

 少々創団時点の平均年齢が若いので20年ではなく25年目で迎えることになった(のだと思います)お決まりのイベント。過去に辞めていった団員にも参加していただいて、25周年をやろう、という企画を考えているのだそうです。まだ決定ではないけれど、たまたま街中で、居酒屋で従兄弟とばったり遭遇し、そんな話を聞きました。25周年で辞めていった団員に参加してもらう。私は創団時点のメンバー。というわけで、特に強くお誘いをいただいて(と、感じました)、これは、彼の熱意を無碍にはできない。そんなきっかけでした。

16日朝の寝ぼけエピソード

 前置きが長くなりました。「歌系の趣味から生き方を」のテーマには、ここまでは実は不要なお話し。

 そんな経緯があり、早速練習に参加したところ、なんと10日後に本番が一つある、というお話になりました。2曲だけではありますが、1曲は、なんとなく記憶にある程度の曲。もう1曲は全くの初見。
 流石に真面目に音採りして、暗譜しなければ。

 睡眠学習は、寝る直前が良いそうですが、昨晩、布団に入ってから、練習の録音を聞いていました。そのまま寝落ち。そりゃ、当然ですね。

 携帯に入れておいた音源でしたが、使用しているアプリは同じフォルダの音声データを繰り返し再生する設定になっていました。
 ですから、私が寝ている間、同じフォルダにある音声データが繰り返し再生されていたと予想されます。

 明け方になり‥

 心地よい歌声に気づいて目が覚めました。昨晩寝落ちして、携帯からの音楽が聞こえていることはすぐにわかりました。
 「あれ、こんな曲、携帯に入れておいたっけな」
 「誰が歌っているんだ?  オリジナルの歌手ではないな‥」
 寝ぼけながらそんなことを思いながら、聴き入っていました。

 間奏になって、何やら雑談が‥。

 それで気づきました。「あ、これ、昨年のコロナ第5波前に、いたずらに録音した自分のカラオケだ」と。

 歌系の趣味人でありながら、自分の声を聞いて、「心地よい歌声」と、思ったのは、完全に初です。

寝ぼけた中で、自分をなぜ無意識に高評価できたのか


 これは、NPO法人れんげ舎が主催の「じぶん綴り方」のサークルへの投稿でもありますが、そのれんげ舎代表の長田さんの note の記事にも、こんなものがあります。

褒め言葉はスルーせずに受け止めて

大切な友達に接するように自分を扱う

 自分に厳しく、自己採点を厳格にするのは、何かの成長には必要なことだと思います。しかし、自己評価って、あくまでも客観的であるべきだとも思うのです。
 厳しさのあまり、褒めていただいても、それをスルーする。それは、客観的では全くありません。頑張った自分の成果を評価し、良い点にも気づいて、それを伸ばすことも、成長には必要な視点です。

 でも、こと、歌系の趣味については、これまで綴ってきたように、「お父さんに褒められる」に起因する厳格さがあって、客観的になれていない。そういう自覚はありました。

 明け方の、夢か空(うつろ)かわからない中で聞こえてきた自分の歌声。
 それに、なんの抵抗も、制約もバイアスもない自分の意識が「いいな」と反応した。

 そんなふうに、このエピソードは言えないでしょうか。
 そんなことがないと、バイアスを外せていないんだな。

余談と画像の御礼

 そんなに素晴らしいと思ったならば、ここにリンクを貼っちゃえ、と、一瞬思いましたが、後半にちょっとへたっていまして、全体としては、NGなそれでした。ですから、それはしません。

 しかし、寝ぼけ眼状態でなくても、もっと自分を客観視できないといけない。そんなことを思うきっかけとなるエピソードだったので、今回、note に綴らせていただきました。

 ちなみに‥このエピソードで歌っていたのは、この曲。

 私にも翼がある。そう信じて歌わないといけませんね。
 そういう意味で、画像は、みんなのギャラリーから、「翼」で検索して、気にいったものを使わせていただきました。ありがとうございます。

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