最近の事を書こう

めっきり寒くなってきましたね

秋と冬のちょうど間という感じです

この時期、「最近気温の差が激しすぎる!昔はこんなことなかった!」

みたいな話を毎年している気がします

じゃあ多分そんなことは無かったんです

結局毎年差はあれど、変わり目の季節というのは気温が不安定なんだと思います

ですが、「大雪」「大雨」などのイベント的記憶だけが残り、毎年の普段の日は、すっかり忘れられ、「今年は変だ。異常気象だ」という一つのトークテーマになっているのだと思います

そんな最近ですが、私はとあるものにハマっています

それは「遭難記録」を見ることです

あまり褒められた行為ではないので、趣味というには憚られますが、まあ趣味です

この悪趣味がなかなかに興味深く、面白いので、少しその話をしていこうと思います

この先は気持ちの良い内容になることは無いので、閲覧はくれぐれも注意してください。また、筆者は専門家ではなく、あくまでも「遭難記録を読んでいて思ったこと」を述べているということをご理解の上、ご拝読ください。


遭難記録

遭難記録って具体的に何かと言いますと、要するに新聞、Youtube、書籍などで語られる、遭難の体験談や事件記録です

なので、それらはすべてが正確にかつ詳細に述べられているかといえば、かならずしもそうではありません

自身の体験として書いていたとしても、脚色や多少の改ざん、誤解などがあるためです

また、メディアが通されるということは、ある程度の物語化が行われるということでもあります

話を簡略化、伝えやすくするための工夫であるとはいえ、その記録というのが劇的にされているということは、前提にしておいてください

ただ、それを踏まえても、それらの記録というのにこもる迫力と恐怖、そしてドラマというのは、得難い体験談であり、ある種の薫陶でもあるわけです

実在の人物が関わっている事であり、そこへ安易に喜怒哀楽の念をぶつけるべきでもないとは思います

まして、行動に評価を下すようなことは以ての外だと思います

ただ、誤解を恐れずに言うなら、やはり面白いものなのです

その魅力について、少し紹介させていただきます


異質な事故記録

皆さんも、ミステリー作品や、事件を取り扱ったドキュメンタリーは好きだと思います

難事件を解き明かしていく中にある、人々の思惑や、偶然、工作によって惑わされながらも解決というゴールへと向かう、解決を目指す人々による試行錯誤は、心動かされるドラマがありますよね

遭難記録というのはあくまでも事故です

それ故に、そういったものとは異なります

あくまでも、被害状況とそれが起きた理由の二つが述べられているのみです

そこにあるのは、複雑怪奇なトリックでもなければ、凶行に駆り立てた人間ドラマもありません

あるのは、ほんの少しの綻びだけです

ただ、登山という行為においては、その綻びが牙をむき、時には死に至らしめるような大事故にまで至っていくわけです

その綻びは、あまりにも多種多様です

そして、登山だけに限った話ではないことも多いです


遭難の要因

様々な事例を見ていても、実は遭難の要因には、必ずコレといったものはありません

本当に、ほんの少しの綻びが集まって事故へつながっています

勿論、山をナメたという大要因があることもあります

ですが、万全の準備をした、ベテラン登山者であっても遭難することも少なくありません

また、遭難といえば冬山、雪山のイメージが強いですが、そんなこともありません

夏山で、真夏に凍死したという事例もたくさんあります

ではその綻びとは何か、私なりに考えてみました

①準備不足

準備不足というのが、基本的に一番多い要因ですが、「必要な装備がない」というような事例は、案外多くない気がします

ですが、明らかに死に至る要因が準備不足に見えてしまう理由が一つあります

それは、「遭難を想定していない」という点です

ですが、登山においては当然なんです

荷物はできるだけ減らす必要がありますし、体力的にも荷物は軽い方が良いです

また、日帰りを想定していれば日帰り、1泊を想定していたとすればそれ用に準備するのが当たり前です

旅行とは異なり、すべての荷物をザックに詰め込んで数時間も山坂を歩くわけですから、無駄なものを入れる余裕などありません

ですが、いざ遭難し始めてしまうと、結果的に準備が足りなかったと言われてしまうわけです

ですが、必要な準備という点では、装備の話ではありません

寧ろ行程の問題が大きいように思います

②準備不足(行程)

行程の準備というのは、要するに事前計画です

主に、コース時間天気です

特に、遭難事故においてほとんどが天気の急変による行程のズレです

天気を読み違える、疑似好天に惑わされるなど、天気、主に雨や雪によって、行程を狂わされてしまうことが、悲惨な遭難につながっています

予想外の天気の急変に出くわしたら、すぐに下山の判断をすることも必要ですが、それもそう簡単ではないわけです

③進退の判断

さて、生死を分ける判断こそが、進退です

ですが、記録をみていると、意外にも、「下山することが正解」というわけでもなさそうなんですよね

素人考えでは、「とっとと下山しちゃえばいいのに」と思いますが、そうもいかないようです

実際、私も中学2年生の時に、夏の富士登山を行ったことがあります

一番大変だった思い出を聞かれると、早朝の山頂アタックよりも、下山の方が大変であったことを話しているような気がします

これは「疲れていたから」ということ以上に、荷物と体重を支えながら滑り落ちないように、常にブレーキをかけながら進まなければいけないためです

雨で地面がぬかるんでいるなど、足元が悪ければなおさらです

留まるという判断も難しく、風雨にさらされるような場所や、テント設営等ができない場所であれば、どうしようもなくなってしまいます

つまり、場所や場合によっては

留まるわけにはいかないし、下山もできないので、頂上へ進むしかない

という事態が発生するわけです

物凄く難しい進退判断をしなければならず、メンバーや場所、天候などのの状況を総合的に鑑みなければならないため正解もありません

そうなると、やはり途端に困難になってきますよね

携帯電話が登場する以前は、この時点で詰んでしまうことが多かったようですが、現代はそうではありません

実は、山の上でも電波が繋がる場所も多く、電話がつながるため、避難要請も容易です

ですが、それでも遭難事故は起きます

もしかしたら、これが最も大きな要因なのかもしれません

④遭難の自覚

皆さんは「助けて」って言えますか?

正確には、大ごとになる前に、助けを求められますか?

意外とできないんじゃないでしょうか

勿論私もできません

もっと身近な話で言えば、歯科健診とか健康診断とか、定期的に受けてますか?違和感があった際、すぐに病院へ行けますか?

「痛くなってから病院」が多くないですか?

遭難も同様です

「遭難している」という自認をすることができないんですよね

じゃあ、自分がその状況になったら素直に「遭難している」という事実を受け入れられるかといえば、恐らくそうではないんですよね

予定に道に迷い一晩を過ごさなくてはならなくなり水も食料もない

という状態になり、動けなくなってから初めてこれは遭難であると気付くことが多いようです

救助隊も、通報からすぐに来られるわけではありません

冬山ならなおさらで、見つけてもらったとしても、通報からはかなり時間が経っていることがほとんどです

そこまで1日、あるいは数日を生き抜かなければならないわけですから、当然過酷なサバイバルになるわけです

ですが、「動けなくなるまでは動ける」という事実が、遭難をより自認させにくくしているように思います

遭難は防げないのか

4つの要因、というより、観測から見える共通点を挙げてみました

これらはそれぞれ密接に関係しており、一つがどうこうというものでもありません

結局のところ、運にも左右されてしまうわけですから、どうしようもできません

逆に言えば、運そうなんきrぽが良かったがゆえに、上記全てを満たしたやらかしをしても生還している方もいますから、やはり、遭難の要因などというものは無いのかもしれません

では、防ぐことはできないのかという話ですが、恐らく不可能です

登山計画書の提出などは、あくまでも遭難後の救助活動をしやすくするためであり、遭難を防ぐものでは当然ありません

準備万端だからと言って遭難しないわけではありませんし、経験豊富だからと言って生きて帰れる保証はどこにもないわけです

我々のような登山をしない人間は「登山しなきゃいいじゃん」としか思わないのですが、そうもいきませんからね

そこに浪漫がある限り、たぶん人は山に登ります

遭難記録を読むおもしろさ

漸く本題と言ってもいいかもしれません

では、遭難記録を読むおもしろさは結局どこにあるのかという話です

遭難記録にあるのは、遭難した人のプロフィール遭難に至るまでの経緯遭難状態の記録その後の大体4つに分かれます

淡々と綴られる記録の中にあるのは、登場人物たちの少しの油断と不運、そして、迫る死の恐怖との戦いです

他の事故と違い、遭難においてはほとんどの場合、ゆっくりと、3日、4日と時間をかけて徐々に死が近づいてきます

強い緊迫感が遭難記録には存在します

傍から見れば、ごく当然の様に、予想通りに遭難まで事が進みます

「これをしなかったから」「あれをしてしまったから」と、理由が明確なトラブルが次々と起こります

ですが、当事者視点で見てみると、予想外の出来事の連続なわけです

それ故に、選択を間違え、どんどんと悲運へと進んでいってしまうように見えてしまいます

そのギャップの恐ろしさが、どことなく人を魅了する不思議なストーリー性を持たせているのではないかと私は思います

遭難記録を見ることに、直接的な喜びはありません

むしろ、恐ろしさと死への恐怖感を掻き立てられるのみです

ですが、多くの教訓が得られることも事実です

登山という限られた環境に自ら飛び込んでいく行為だからこそ、遭難に対して非難を浴びることもありますが、大規模災害で被災したとなれば、状況はそれほど変わりません

パニック下で人間が陥る状態や、生存に必要な知識、してはいけないことなど、どこまで再現ができるかはわかりませんが、知っておいて損はないことばかりです

と、偉そうに教訓めいたことを語っていますが、本質はそうじゃないんです

結局は、自らが体験したことがない死の恐怖を疑似体験し、生の喜びを実感したいという下心があるのもまた事実です

先ほども述べた通り、遭難記録というのは、それが死亡事故であれば、長い時間をかけて綴られた、その人が死に至るまでの記録でもあるわけです

自殺願望があるわけでも、人の死を嘲ろうという意図があるわけでもありません

ただ、死を恐怖し、危険なことせず、生きている人間が得られる安全なスリルを摂取したい

という、歪んだ願望です

なので、決しておすすめはしません

ですが、インターネットですから

大っぴらに人に言えない趣味の話もさせてください

出来ればそういうのを聞かせてほしいです

もしもあるならこっそり教えてくださいね

それでは



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