見出し画像

寝ても覚めても 考察1

 先にお断りさせていただきたいのですが、この劇評は考察という特性から、完全にネタバレしています。これから観る予定の方や、そもそもネタバレがお嫌な方は、どうぞ、そっと画面を閉じてください。


 良い映画には、心を掴まれる瞬間がある。映画『寝ても覚めても』には、そんな心を掴まれる瞬間が数え切れないほど存在するが、私がこの映画でまず心を掴まれたのは、映画が始まってすぐ訪れる、朝子(唐田えりか)と麦(東出昌大)のキスシーンであった。朝子と麦がキスをしたとき、私は完全にメロドラマが始まったと思った。あるいはトレンディドラマが。男女が好きだの好きじゃないだの言い合いながら、やがて二人で苦難を乗り越え、そして結ばれる。やり尽くされてはいるが、しかし同時に安心して観ることのできる映画が始まったと、このときは思った。
 それと同時に、好きになる過程を廃して、出会った瞬間、ほぼ一目惚れ的に恋に落ち、すぐにキスをしてしまう展開に高揚もしていた。ああいうところが良いから、こういうところに惹かれたから、そんな細々とした描写よりも、ただ好きになったからと言う一点のみにおいてキスをする二人は清々しく感じられたし、これから始まるラブロマンスも、どうやら一筋縄ではいかない、少なくとも好きになることの理由をクドクドと説明するようなタイプの映画ではなさそうだぞと、心地良い緊張感の中で映画『寝ても覚めても』という大海に飛び込んでいった。
 大海に飛び込むと、すぐにある疑問が浮かんだ。前述したように、朝子が麦を好きになった理由の描写は必要ないかもしれない。だって好きになったものは好きになったのだから。そのまた逆もしかり、麦が朝子を好きになった描写も必要ない。何よりも麦は朝子以上に何を考えているかわからず、描写そのものが非常に困難そうだ。
 確かに二人が好きになる理由、過程は描かれなくて良い。しかし、出会って名前を聞いただけの人間同士がキスをするだろうか、という疑問は残った。そもそもリアリティとしてどうだろう、とも思う。そしてその疑問をこそ、『寝ても覚めても』の考察を始める導入部としたい。この疑問から、この映画がどういう景色を見ている映画なのかが、おぼろげながらも浮かび上がらせることができればと思っている。この不思議がたくさん詰まった恋愛映画を語る最初の疑問としては、なぜ朝子は会ったばかりの人間とキスしたのかという問いは、存外良さそうだ。

なぜ朝子は出会ったばかりの男とキスしたのか?

 映画を振り返ってみると、冒頭、少年たちが花火で遊んでいるところからこの映画は始まる。そこから始まり、朝子と麦が出会い、キスをするまで、何と四分しか経っていない。朝子が麦と会話をしたのなんて一〇秒程度である。自己紹介がてらに名前を言い合っただけなのだ。
 意味がわからない。
 観客の言葉を代弁してくれるように、すぐさま岡崎(渡辺大知)が「そんなわけあるかーい!」と突っ込んでくれる。居酒屋で、麦が二人の馴れ初めを岡崎に話したのだ。観客もまさしく、そんなわけあるかい! 状態である。しかし麦と朝子は「だって本当のことだもんなぁ」などと、むしろ突っ込まれたのを不思議に思っている様子だ。ここで麦と朝子の二人ともが、出会ってすぐのキスは『本当のことである』と認識しているのは、二人の関係性を語る上で非常に重要なことである。
 そんなわけあるかーい! と、全員(麦と朝子以外)が突っ込みたくなるキスを、なぜ朝子は当然のように受け入れたのか? これはつまり、認識・視点の問題ではないだろうか?
 冒頭のキスシーンはややもすると、ただの記号になってしまう可能性もある。二人が恋をした証としてのキス。キスをすることで二人は恋に落ちてるんだよ、というような、ある種のレッテル貼りにもなりかねない。ここで、冒頭のキスがただの記号になってしまっているかどうか今一度、映画を振り返ってみたい。
 キスをするまで、映画はずっと朝子の視点で進む(キスをしてからもしばらく朝子の視点で進むが)。朝子が美術館に行く描写がなされ、大阪の風景が映され、朝子が美術館に行くまでにすれ違った、花火で遊ぶ少年たちが映し出される。美術館に行ってから、そこで行われている牛腸茂雄の写真展『SELF AND OTHERS』が映し出されるが、ここで映されるのも、朝子が見ているであろう作品群である。『クラリネットをこわしちゃった』のメロディーを口ずさみながら、ここに麦が現れる。しかし朝子は一瞥するだけで、気にも留めていないようだ。朝子が写真展を観終わり、帰ろうとすると、前を麦が歩いている。ここでも朝子はパンフレットを読んでおり、麦の存在を特別意識している様子はない。帰り道、先ほどの少年たちが花火でまだ遊んでいるところで、朝子と麦は別々の方向に進む。そこで爆竹が鳴り、振り返ったところで二人は初めてお互いの目を見るのである。ここで二人は初めてお互いの存在をはっきりと、相互的に認識する。つまり出会う。そして出会ったと思いきや、キスをするのである。
 非常に劇的だ。
 もちろん写真展の見せ方、写真を見つめる朝子の眼差し、ダルダルのシャツにサンダル履きの麦と、捉えるショットはことごとく興味を引くものであるが、それらは淡々と進められ、大きく観客の心を揺さぶることはない。そう思っていたところでのキスである。あまりにも劇的と言って良い。一目惚れにもほどがある。しかし当の、キスする二人はそれが当然であるかのように受け入れる。朝子は一瞬躊躇うが、すぐに麦のキスを受け入れる。
 だがここで思うのは、出会ったばかりの男とキスをしたのも、朝子の認識なのではないかということだ。朝子の認識の中では出会ってすぐにキスをしているのだが、現実には、もしかしたら朝子と麦は自己紹介をしたあと、ご飯でも食べに行った可能性もあるのではないかと思う。そのあとに買い物にさえ行っているかもしれない。そして良きところでキスをした、という流れだったかもしれない。
 しかし朝子と麦がどのように、どのタイミングでキスをしたかは実は問題ではない。問題は朝子の認識においては『出会ったばかりの男と名前を聞きあい、そのままキスをした』と思っていると言うことこそが、重要なのだ。これ以外の、他の些末な出来事は取るに足らないものに過ぎず、朝子の中では、あの出会った瞬間、麦と目があった瞬間、名前を聞かれた瞬間、キスをされた瞬間、それらの瞬間がすべて、映画全体を支配するほど重要な、朝子が麦に恋した瞬間だったということである。だからこそ、劇的なのだ。だからこそ、岡崎の突っ込みに対して、心の底から「だって本当だしなぁ」と言った麦に頷けるのだ。
 『二人はこの冒頭で目を見合った瞬間に恋に落ち、キスをした』と、朝子と麦は少なくともそう思った。もっと言うならば、ふたりの世界ではそう世界が見えていた。このあまりにも大胆な主観性こそが、『寝ても覚めても』の、恋愛映画としての異質性を決定付けているし、ホラーではないかと言われたり、ずっと夢の中にいるような映画であると評される所以であると思う。
 考察2に続く。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?