見出し画像

さようなら ありがとう 宝石の国


4月25日、宝石の国が最終回を迎える。

高校2年生の秋頃に最も信頼できる友人の勧めでアニメを見て、作品を知り、そこから漫画を買い…なのでおよそ8年間この作品を追い続けたことになる。

本当に本当に素晴らしい作品である。

私如きが何かに序列をつけることなど烏滸がましいとおもうが、もしどうしても最も好きな漫画を一作品上げろ、と言われたら宝石の国を選んでしまうだろう

もしこの先、一生同じ漫画しか読めないと言われてもまた宝石の国を選ぶだろう。一生宝石の国のみを読み続けると人間はどうなってしまうか興味深くもある。

改めてこの作品に思うこと、感じたことをせめて何かで形にしたいと思いスマートフォンのメモアプリを起動した。そしてどうせなら誰かと共有したいという純粋な感傷と、みみっちい承認欲求からnoteへ投稿することにした。

正直にいうとなぜここまで宝石の国を好きになったのか、分かっていないところがある。キャラクターの内面、外面の魅力、儚く切ないストーリーなど挙げていけばきりがないが、元々は少年漫画などを読み漁っていた自分がなぜこの作品を生涯における第一の作品としたいほどハマってしまったのか。

考えた中で最も近いと感じたのは美しく浮世離れした宝石たちの「人間くささ」のようなものが強烈に刺さったのではないかと思う。

高校2年生というのは多感かつ、人から見ればくだらない悩みに執心して疲れていた時期だったように思う。他者との距離、関係、自己肯定のような悩みは非常に身近に感じられつつ、宝石の外見や世界観があまりにも現実と離れていたために、すんなり読み込むことができたのかと思う。

宝石たちが浮世離れした悩みや厭世観を抱えて過ごす漫画であれば「なんだか高尚だな」で読むのをやめていたかもしれないし、よくある学園もので不憫な主人公の空回りを描かれたら「現実世界で充分」とこれもまた離れていたかもしれない。

また主人公のフォスフォフイライトがとても感情移入しやすく、愛らしいキャラクターだったのも間違いなく一因である。これは後々私も含めた毎月本誌を追っていた読者を蝕むことになるのではあるが。

この作品を好きな理由はこれからもきっと考え続けていくとして、明確なものもある。

私はアンタークチサイトが好きだ。

冬のみ固くなる、硬度は低いものの勇敢で実は甘えん坊なアンタークチサイトが好きだ。

彼が戦い、その後フォスへ託すシーンが私に「自分はかっこよく最期を迎えるキャラがたまらなく好きなんだ」と自覚させるに至った。

まあ彼は死んでおらず色々合って再登場するのだが、その期間「あぁうちの推しは粉になっててよかった」と何度思ったかわからない。

それほどにアンタークの死(3巻)から再生(12巻)の間に起きたことは壮絶であった。

一つ言い訳をしておくと私は決して宝石の国をいわゆる「鬱漫画」として捉えているわけではないし、鬱漫画を好んで読むわけでもない。それとは別軸で「ぼくらの」とかが好きなだけなのだ。

確かに読んでいるとしんどくなることは多々あるがむしろ発される言葉の一つ一つが心に安らぎすら与える漫画だと思っている。

ただ流石に読み続けていたからこそダメージの大きかった展開がある。

カンゴームのあまりに大きな変化。黒ギャル化NTRである。(言葉を慎め)

アンタークに代わってフォスの相棒を務めてくれたカンゴームが月の王子の言葉に絆され、妻となりフォスのことを見捨てる、という展開なのだが時間をかけて読み返していたからこそダメージが大きかった。

また無性とされていた宝石の中で、かっこいいキャラであったカンゴームが「妻」と呼ばれめっちゃフリフリの服を着てノリノリで女性的になっていくのもなんとなくしんどかった。

そしてこれはおそらくこの件において、私が何に最もショックを受けたか、に対する自分の中の答えなのだが「自分の好きだったそのキャラの一面をそのキャラ自身は嫌っていた」という事実があまりにも重かった。

感情移入していたフォスがまた酷い目にあってることや、それを尻目にカンゴームとエクメアがいちゃついているのも見ててきつかったが、自分の傲慢さを突きつけられたような気がしてかなりダメージがあった。

カンゴームの変化そのものへのショックと、カンゴーム自身にとっては幸せであるその変化を自分は好きになれないと自覚したことのショックで大学生だった当時かなり落ち込んだ。

その後も何度か読み返し、反対に休載などのあまり読まない期間を経て自分なりに乗り越えることができたと感じている。

スタンスとしては「受け入れられない自分を受け入れることにした」のである。

カンゴームに関していうならば「幸せになれたならよかった。私は昔の方のあなたの方が好きだったけど」と心の中で呟くことで、そこまで抵抗感や罪悪感なく、展開を受け止められるようになった。もちろんそれはずっと心に留めておく。

どちらかというと自分の心に働きかけて、心を守る構え方だと思う。身勝手に聞こえるかもしれないが相手を無理に変えるのではなく自分を変質させる方向へ切り替えた点は評価できるのではないか。

余談ではあるが、この心構えが20年追い続けた特大コンテンツがとてつもない最悪の終わりを迎えた際に非常に役立ったことをここに記す。

明日の今頃の時間にはすでに私は宝石の国の最終回を読み終えているだろうと思う。

泣いているだろうか、笑っているだろうか。正直どんな終わり迎えるか、全く予想がつかないため、特に終わり方に望むものもなく、がっかりはしていないだろう。

ただ市川春子先生が描く物語の最後を無事に迎えられそうなことは間違い無く幸福だといえる。

仏教的なものの流れは全く無知なままなので、そちらを勉強してからまた読みたいとも思う。

何はともあれ、最終回を迎えたところで全く離れるつもりはないけれど

さようなら ありがとう 宝石の国

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?