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イメージからことばを紡ぐ行為

 緊急事態宣言が延長されたことで、オンライン授業も継続となりました。六月のはじめ。梅雨は明けていないというのに、外は痛いような日が照りつけて、それらはわたしにはまぶしすぎたようで、体中のエネルギーを失っています。わたしのカラカラに乾ききった心と身体に、水を注いでほしいです。ひそかに雨にお願いしています。

 そんなわたしの苦労と別に授業は淡々と進んでいきます。
 今回も授業の一貫で、前回作成したPinterestのボードにサブボードを作成しました。わたしは以前からPinterestを愛用していましたが、サブボードの存在をはじめて知りました。なんと今更。

 作成したサブボードの名前についてそのいくつかを説明しながら、わたしが各イメージをどのように見ているかを明らかにしていきます。

  だいぶ記事を進めてから気づいたのですが、サブボードごとのリンクはなぜか貼れないようです。残念。



浮き世を離れて鯉になる

 こちらのサブボードでは、見て「ここで泳ぎたいなあ」とか「泳いでいるような心地がする」そんなイメージを集めました。ちなみにわたしは現実には泳ぐことができません。一番泳げた距離が10mほどです。わたしには、自分が泳げないからこそ、泳ぐという行為を自由に付随する行為として捉えているところがあります。

 わたしたちは人間でいる限り、いつも何かにしばられています。わたしは、自由にいろんなところを泳ぎまわることができる点で、「」を自由の象徴と設定します。わたしが鯉になる、つまりわたしが人間であることから解放されて、自由に泳ぎたいと思えるイメージをこのサブボードにしまっておきました。



うなじから夢のにおいがして、いつの間にかわたしの足が透明になる

 少女という存在は夢の中にいつも漂っているような気がします。物語の中にしか存在しない概念として。

 少女のうなじはとても貴く思えます。貴く、触れがたいもの。

 そのうなじからわたしを夢へと誘うようなにおいが漂ってくるのです。夢の中の少女から夢へ誘われるとはどういうことでしょう。

 そうしてそのにおいのおもむくまま、わたしは夢の中の夢へと渡っていきます。夢から夢へと渡り歩いていると、とても楽しいような、ふわふわした気持ちになっていきます。そんな気持ちを「わたしの足が透明になる」と表しました。



饗宴

 「お祭り」に対して憧れがあります。前提として人間でないものが存在するからか、お祭りには現実感がなく、どこか妖しい。非日常な行いでもあるので、現実という日常とはかけ離れて、別の世界を覗いているような感覚もあります。しかしこれは、わたしの想像上のお祭りなので、実際にはどうか知りません。(あまりお祭りに行った記憶がありません)

 そんなわたしの想像するお祭りの雰囲気をかもすイメージをここ、「饗宴」に集めました。わたしを歓迎するのは、人間でしょうか?

 我をわすれ、日常も忘れ、人間であることも忘れて、お祭りを狂いたのしみたいですね。いつかそんな日が来るでしょうか。



目を逸らすな

 目を逸らすな。その名の通り、わたしの目をがっちりとらえて離さないイメージを集めました。

 なにかに見つめられているとき、わたしはわたし自身を見つめているような気分になり、見つめる瞳と見る瞳、どちらもを交互に行き来して、いったいわたしは誰なのか、と、存在の確かさがあやふやになっていきます。そんな不確かさにたゆたうような心地が好きです。



時間になる、ここに、空気だけがある

 イメージの中の空間に、わたしの身体やたましいごと取り込まれてしまうような、そんなイメージを集めました。

 わたしはあまり存在感がないようで、近づいて驚かれることが多いです。実家で同じ空間にいる母親に何度驚かれたことか。足音が小さいのでしょうか。

 そんなときのわたしは空気に近いと思います。存在感の薄い人を空気と揶揄することもありますが、まさに空気に近い存在なのではないかと。

 さらに、このイメージの中では、わたしは時間にもなるのです。ただ過ぎて行く風、動かずひっそりたたずむ物を、眺めているだけの存在になるという事です。感情や思考は透きとおり、空間のなかで散らばっては薄くなり、やがて消える。地に足がついている感覚がなくなり、空間のなかに溶け込んでいくのです。気持ちがいいです。

 涼しい風を感じますね。




血を、放って、闇を打ち破ることはできるだろうか

 石岡瑛子さんの広告が含まれているので、石岡瑛子さんの展覧会みたいなタイトルになってしまったサブボードです。

 闇を打ち破るためには、闇から目を逸らしてはいけない、むしろ闇のことを深く知る必要があると思うのです。「闇」ということばにはいろんな意味が含まれるとは思いますが、このサブボードでは底が深いという意味での「闇」を扱っています。

 闇を深く知る方法。これも人によってやり方は違うと思います。闇の反対である光のことを深く知ってみる、あるいは闇と光を共存させてみる。



放て春

 「血を、放って、闇を打ち破ることができるだろうか」で「放つ」という単語を使っているのにもかかわらず、このサブボードでも使ってしまいました。

 悩んだ末に、イメージ群を見ながら出てきた言葉です。許してください。

 言語による非言語的な思考もあっていいんじゃないかとわたしは思います。わたしがサブボードの名前をつけるときに行っている思考が非言語的かどうかは分かりませんが、イメージをざっと見通して、特に明確な理由もなく無意識から湧いてくる言葉ってあると思います。上にあげたほぼすべてのサブボードが、そういった理由のないことばたちで構成されているにも関わらず、わたしはここまで無理に理由をこじつけ言語化してきました。ここまでよくがんばりました、わたし。このnoteが意味の分かるものなのか、不安で仕方ありません。

 実は、わたしは同じようなことをいつもinstagramで行っています。
 自分の作った作品、つまりイメージを見て、ふっと意識の中に浮かび上がってきたことばを掴んでいく。そのことばをつじつまが合うようにつないでいく。そして、また意識に浮かび上がることばがあると、それもつかんでいく。言葉を紡ぐとはそういう作業なのでしょうか。