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好きと言えることはたぶん特別です

 わたしは高校生のころまで、自分の意見が言えない人、というよりかは自分の意見がない人でした。好きなもの、趣味もなく、誰かにやれと言われたことをこなすだけで生きていました。今のわたしの姿からは考えられませんが、服にもまったく好き嫌いが存在せず、興味もなかったので母の買ってきた服を適当に着ていました。嫌いな人も、好きな人も存在しませんでした。

 だからこそ、今こうして何かを好きと言えることが、とても特別なことと思います。誰にでもできることじゃないと思うのです。当然のようにできることじゃないです、きっと。
 そんなことをPinterestをながめながら思いました。


 とはいっても、自分の意見がなかったころも、完全に好きなものがなかったわけではないと思います。好きなものを好き、と言える環境じゃなかったり、そもそも言う機会がなかったり、それでもたまに好きと言ってみたらそれがあまり受け入れられなかったり、外的な要因が大きいと思います。

 今回授業の一貫で、Pinterestでアイデアを50個集めるというこころみを行いました。(上にあげたものがそれです)
 その中にわたしが小学生のころに読んでいた本の、挿絵を描いていた方の絵があります。

 この本の挿絵を描いているのはデイヴィッド・ロバーツさん。怖い話の本の挿絵なだけに、どの絵も不気味です。小さいころ、この不気味な絵がわたしは大好きで、真似して自分も描いていたりしました。しかし、それを見て「なんでそんな気持ち悪い絵描いてるの」なんて言われたりしました笑


 今、ふたたび好きを再確認しています。この絵を、好きだ!と言える今があることがとても不思議です。


 何かを好きだ、と言ったり、何かを嫌いだと言ったりできること、それは選択できる能力だと思います。いくつもの選択肢があったときに、どれか一つを選べる能力です。選択することは、自らの人生を自分の好きなように生きることにもつながると思います。
 生きる中で、選択肢は実は無数に存在しているのに、選択肢が見えないときもあります。自分にはこの学校しかない、自分にはこの人しかいない、自分はこの道で生きるしかない、みたいな考えをしているときです。きっとそんなことはないのにね、と外野から見たらそう思えても、自分には選択肢が他に見えない。そんなときでも選択肢をどこかに見出す力、それも、好きを宣言できる力と繋がっているのかな、と今思います。


 ここで、好きなものを自分で好きだなあ……と思いながら集められたこと、しかもそれを誰かほかの人に公開できること、なんだかすごいことだなあと思っています。
 これからも、授業含めいろんな物事を通して、自分の好きをつきつめて磨いていきたいと思うばかりです。

追記
 以前こんなツイートがあったのを思い出しました。見て自分の中でひっかかっていたものです。

 まだわたしには「自分が無意識で好んでる造形や質感をルーツの中から探す」という意味が十分には理解できていませんが、これを見てから一度神戸ファッション美術館のライブラリーに行きました。抽象を具体にする行為、という意味なんでしょうか。とにかく、「自分の好きをつきつめて磨いて」いくためにとても大事なことなんじゃないかと思います。