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『ヒナギクのお茶の場合 海に落とした名前』

2021/03/15 多和田葉子作

良くも悪くもいろんな意味でボーダーレスだ。
国境はともかくセクシュアリティについても、線引きというものを跨いだり崩したり、そういうことを書いている。
「雲を拾う女」や『犬婿入り』では姿形が物理法則を超えて変化するからか、授業では川上弘美に似ていると紹介されていたが、読んでみるとそうでもなかった。
暗喩や言葉遊びがとても多い。巧いと思うこともあるが、まどろっこしいと感じることもあった。

「ヒナギクのお茶の場合」がお気に入り。「所有者のパスワード」「海に落とした名前」も面白かった。
「時差」はコロナ禍を受けて書かれたものかと思ったが、初出は2006年で驚いた。差別化できないビデオ面接や、身体を介さず電話線上で時間の共有を試みる恋人たちは、いまや当たり前に散見される事態となってしまった。

木村先生の解説(注)は「ヨーロッパの列車は国境をまたぐ」と「クィア文学あるいは文学としてのクィア」の二部に分かれており、個人的には後者が興味深かった。
一般に、世界には男と女しかいなくて、「好き」には友達としてか異性としての2パターンほどしかなくて、「男と女ならノーマルでそれ以外ならゲイかレズ」のように思われがちだが、木村先生の言う「名づけえぬ欲望」(p.328)にも考えを巡らせたい。(今学期は「名づけ」についてたくさん考えた。クィア文学の授業でも家族社会学の授業でも自身のゼミ論でも、テーマは違えどつねに「名づけ」が思考をついて回った。)感情も関係もセクシュアリティも、無限に多様で可変的なものだ。そんなにはっきり言語化できるほど形の定まったものではないと、最近は考えている。

注:木村朗子「世界中の読者がなにかを語りたがっている」[多和田葉子『ヒナギクのお茶の場合 海に落とした名前』(講談社文芸文庫,2020),pp.320-332]

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