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『Schoolgirl』

2022/12/16
九段理江,2021,文藝春秋.

太宰治の「女生徒」を下敷きにして「Schoolgirl」。タイトルこれじゃなくてもいいと思ったけどな。
フィクションを頼りに生きてきた母と、過度にリアリストの娘。なにを見て/見ないで生きていくかという話に、毒親とか母娘関係のテーマが絡んでくる。

空想が現実からの逃避場所だとか、本質を豊かにするための道具のように位置づけられてるのってなんで。フィクションがリアルの奴隷になってるというか。空想的であることが少女的であり幼稚であると言われることにわたしはむかつく。
『cocoon』で書いた通りわたしはフィクションを信じているので娘より母のほうが距離近く読めるのかなと思ったけど、娘もわたしに似ているところがある。世界に対する傷つきやすさとか、どう対峙していけばいいかわからないかんじ。母と娘は誇張して対照的な人物造形がなされているけど、実は非常に似てると思う。

授業では否定的な意見にパッと反論できなくてもどかしかったけど、母娘の類似性、閉鎖性の観点から、「少女」問題の解放という方向で読めたのでリアぺは満足。

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娘は賢くて母は空っぽだという発言が娘からも母からも繰り返されるのに反して、読書量を考えると母も本来知的な人であり、母の人物造形がよくわからなくなったという意見がありました。これについては、母も娘も同様にとても賢いのだが、母が「娘」から「母」に移行することで、時代や情報媒体の移行とともに、「世界と対峙する少女」という役割を娘に明け渡した(奪われた)のだと考えました。

班の話し合いの中では母娘だけで世界が完結して広がりがないという批判が寄せられましたが、「少女」を扱う上で内向きに閉じた世界を描くことはまず必要だと思います。それが大人になるにつれて開いていくという型が一般的ですが、母も娘も別方向で似た閉じ方をしている(母親世代の代わりに活動している娘はしょせん限定的な世界しか見えていない「少女」でしかなく、年齢的に大人である母もまた閉鎖的な世界を生きる「少女」である)点が面白いと思いました。

一見対照的に描かれている母と娘ですが、母は書物に、娘は動画に閉じている点は非常に似通っており、大きすぎる世界にどう対峙して良いかわからない「少女」が引き継がれ繰り返される形になっています。空想的であることは少女的であり、世間知らずで幼稚であるという評価は、歴史的に女子供につきまとってきたイメージです。このステレオタイプを母に背負わせながら、過剰に理知的な娘にも共通性を持たせることで、閉鎖性の問題を「少女」特有の(ゆえに賢い大人は見向きもしない)ものから、現代やこの先の未来を生きる人間にあまねく該当する問題へと開いていけるのではないでしょうか。

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