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『夏の裁断』

2023/4/11
島本理生,2017,文藝春秋.

ずっと前に後輩に薦められて積んでた本をついに読んだ。まだ「夏の裁断」しか読んでないけど、木崎みつ子「コンジュジ」よりこっちが良いと思った。珍しく丁寧めにnote書こうと思うので裏表紙のあらすじ引用からはじめる。

小説家の千紘は、編集者の柴田に翻弄され苦しんだ末、ある日、パーティー会場で彼の手にフォークを突き立てる。休養のため、祖父の残した鎌倉の古民家で、蔵書を裁断し『自炊』をする。四季それぞれに現れる男たちとの交流を通し、抱えた苦悩から解放され、変化していく女性を描く。書き下ろし三篇を加えた文庫オリジナル。


作家と編集者で拗れて手にフォーク突き刺したってだけでけっこう勘弁してほしいのに、私「自炊」の意味を知らなかったから本を切り刻んで鍋でぐつぐつ煮て食べるんかと思って猟奇的すぎるだろと思ってた。紙食べるんじゃなくて、書籍を所有者が電子データ化することらしい。語彙が増えたね。

「夏の裁断」「秋の通り雨」「冬の沈黙」「春の結論」、簡素なタイトルが良い。うまい文庫化だと思う。私は季節ごとに変化していく女ってところに惹かれて読みたくなった。夏になる前に春の結論に至ればいいけど、もう4月も深まって初夏の足音が聞こえつつある。

先輩は「わたし島本理生読みすぎなのか既視感しかなかった」と言って「コンジュジ」は推していた。(先輩、島本理生読みすぎてそう。)私は島本さん初めてなので既視感についてはわからないけど、純文学として分析的にも読めるしエンタメとして自分に引きつけて読むにも楽しくて、読み心地は芥川賞と直木賞の間にいる作家として納得だった。物語をストレートに読んだ、個人的な文脈と被せて読んだ、(というかちょいちょい文章とかセリフが刺さりすぎてこわくて爆笑しながら読んだ、)読後一晩経って、なにをこの作品の柱として抽出すべきかなって考えながら付箋貼ったところを読み返してる。

🌸①

なんだ本って、と半ば憮然とした。なんだってこんなにあるんだ。これだけ読んだのに祖父は普通の人間だった。普通よりは頭が良くて常識的で学者肌だった。でも、それだけだ。本に関わってる人間特有の奇妙な使命感を思い出す。だけど世界は変わらない。自分の隣人すら変わらない。安易な救いなんて馬鹿にしていた。だけどトラウマ持ちの主人公が犬を育てる映画で涙するのがなんでくだらないのか今は分からない。癒しや救いという言葉を馬鹿にしている人間がなにをどれだけ治してきたというのだ。(p.93)

なんだかんだでこれがけっこうめっちゃ響いた。引っ越しする時、重みで板のたわんだ三段ボックスから大学5年分の紙の束を抜き出して、倫理とか正義とか真面目に考えてるやつみんな鬱なっとんじゃああってぶちぎれながら箱詰めした。正しさとか繊細さとか丁寧さとか、信じてきたけど、いまも大事にしたいけど、それで、だから?ってときどき思う。

「はい。でも、一部の大人が褒めたりけなしたりしただけで。肝心の、届けたい相手には届いてないって気付いたんです」(p.42)

おそらくここには、本とか言葉とか知識とか学問とか、高尚さに対する不満と疑念がにじみ出ていて、そのことを表現する媒体もまた、島本さんにとっては小説なのだと思った。「夏の裁断」と、できればその前の「大きな熊が来る前に、おやすみ。」の芥川賞選評も確認したくなる。

🌸②

「あなたは昔からそうだったよ。人の分析はわりに得意なのに、自分のことになると極端に臆病なんだよなあ。菅野さんは正直、臨床で仕事するには繊細すぎると思ってたよ。籠って仕事するのが合ってます。だけど、身の守り方を覚えないと同じことをくり返すよ。」(p.78)

え、

「意味が、あるかもしれないって」
「思いたいよね。でも、そんなもんないよ」(p.79)

え、私に言ってる?って思った。
私は悩みとか不安とか辛い気持ちをネガティブな感情のまま持ち続けるのが苦手で、なんとかポジティブに好意的に解釈しようとか明るさで塗り潰して隠蔽しようとする癖がある。少し前まで私は向き合うとか諦めない強さがあるからと思っていたけど、離れるとか諦めるとか、意味とかないって認めることにも強さが必要だって友だちが言ってた。

「誰にも自分を明け渡さないこと。選別されたり否定される感覚を抱かせる相手は、あなたにとって対等じゃない。自分にとって本当に心地よいものだけを掴むこと」(p.120)

べつに選別されたり否定される感覚を抱かせる相手は周りにいないけど、他者とか組織とかに「ぜったい魂売れへん」って私はよく言う。例えば最近は、会社は今のところ好きだけど、好きだから、ぜったい魂売れへんように常々距離を測ってる。でも「自分を明け渡さないこと」ってのはいいな。「魂売れへん」だと精神的なものしか指し示さないけど、私には生きた肉体があって、心も体もその主権を手放してはならないということ。自分にとって本当に心地よいものだけを掴むこと? えーん、むずかしいな。

🌸③

「この世で自分だけが傷ついてると思ってるだろ」
「思ってないよ、そんなこと」
「思ってるだろ。誰よりも傷ついてるのはあたしっていう自意識で生きてるよ。俺だって本当は言いたいことたくさんあるのを我慢して優しくしてるんだよ。千紘ちゃんのことは好きだから、仕方ないと思ってた。でも、あんまりだろ。」(p.96)

これも友だちと話したかも。怒ってる人って自分が絶対正しいと思ってるから怒れるわけで、泣いてる人って今この瞬間自分が世界で一番可哀想だと信じて疑わないからぼろぼろ泣けるわけで、私はなんか一回外部視点で検討を重ねてからしか自分の感情に確信が持てない。傷つくに足るかとか、被害者ぶる資格があるかとか、考えちゃう。でも感情をそのまま発露してることは多分にあって、例えば楽しい時は楽しんでる自分を白けた目で見るひとがいるかもしれないことをすっかり忘れているし、喜んでる時はこのあと良くないことが起きるかもなんて不安は完全に頭から抜け落ちてる。ポジティブなほうに思考のバイアスがかかってるのかな。

自分の話ばっかしてるけど、ここちゃんと作品として大事な部分だと思ってる。先の引用は猪俣君→千紘に向けたセリフで、次の引用は千紘→柴田さんへの想いが表れるセリフ。

「あんまりだと、思ったから」
(中略)
「……それなら私、なんのために我慢して、声を殺して秘密にして、相手の思い通りになったのか意味がなくなるから」(p.118)

「我慢して」「あんまりだ」がここにも出てくる。重ねて書いてると思う。【猪俣君→千紘→柴田さん】と一方通行で気持ちが流れていて、逆に言うと【猪俣君←千紘←柴田さん】と搾取の構図がはたらいている。千紘の性的トラウマの描写を踏まえると【千紘←柴田さん】の暴力性を捉えるのは容易いけど、【猪俣君←千紘】の暴力性はきっと、本の裁断という形で表れる。(🌸④につづく。)

🌸④

冒頭のフォークぶっ刺し事件は、インパクト狙いでとくに意味はないのかなと思ったけど、身体的な暴力ではなく裁断という行為に暴力性を読み込むならば、少なくとも【猪俣君←千紘】へは【千紘←柴田さん】と同様に一方的な加害が遂行されていると読める。

ぼんやりと佇んで、見つめていた。ようやく終わったという実感がやはり湧いてこない。そもそもなにも始まってなかったからではないだろうか。あれほど耐えた末に手元に残ったのは、人の肌は意外と頑丈だという感触だけ。(p.50)


男の人の手って女からするとちょっとびっくりするくらい固い。フォークで攻撃したところで、柴田さんに対して千紘は文字通り歯が立たない。
男性/女性、大人/子供、高尚/通俗、といった分け方はあまりに安直だけれど、前者の圧倒的な優位性を前に後者ができる反駁といえば、それは身体的な攻撃ではなく、言葉や知識の総体としての【書物の裁断】すなわち【意味の解体】である。

「そうだね。意味は、なかったよ」
「先生?」
と私は思わず頼りない声を出して呼びかけた。
「意味なかったんだよ。菅野さんは我慢してきたけど、そこにはなにひとつ意味なんてなかった。とっくに全部忘れてるよ。やったほうは」
「本当に、なにもないんですか?」
 ないよ、と教授はきっぱりと答えた。
「あなたが守らなきゃいけないと思い込んで背負ったものは不要なものばかりで、本当のあなたを殺し、得体の知れない不快感だけを残して去っていった。違う?」
 違わない、と言いたくない。なにかしら意味や価値があったと思いたい。でもさすがに分かっている。ほかのことだって理不尽だった。(pp.118-119)

ここの教授の助言ほんとにまるきり飲み込んでいいのかわからないけどおそらくこれが真実でこわい。
この小説は2つのテーマに支えられていて、それは大人の男性に対する不信と高尚な知的営みに対する不信。これらに/を失望→相対化→克服することで、千紘はもう一度生まれ直す。

もしかしたら百年後には紙の本なんて一冊も残らないかもしれない。
 結局、最後に言葉が残るのは人の中だけで、それも、いつかは消える。遠い昔、たしかに磯和さんという男の人がいて、私は傷つけられた。でも誰も知らない。本当にあったことかどうかすら、本当は定かではない。
 縛られるものなど、もうなかったのだと気付いた。(p.126)

流れはわかるけど、最後の1行のジャンプにちょっとええって思った。それに、気付きも生まれ直しも千紘自身による変化や前進というよりは、教授の助言の通りに世界の捉え直しが行われていて、その教授は高尚な知的営みに携わる大人の男性っていうのはどうなの?とよく考えたら結末にもやもやする。問題意識があって新人が書いて文壇が評価するって芥川賞の仕組みは、いつだって結末がむずかしい。

表紙の写真には1匹の蝉が写されている。夏だし、蝉しぐれの描写があるし、それっぽいから載せたのかなとなんとなく気に留めなかったけど、さいごの1文「だけど本当の私は、この夏にまだ生まれたばかりらしい。」(p.127)を見て、蝉だ、と思った。幼体のまま地中で何年も過ごした蝉がいま、生まれた。帯をめくってデザイン担当者の名前を見る。関口聖司さん。よきです。天才です。

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