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『ホリー・ガーデン』

2022/03/19
江國香織,1998,新潮社.

母さんの本棚から掘り出したものを。
最近聴いてるチャットモンチーと江國さんって近いところにいるような気がする。生活から遠くない場所で、懐かしさを含んだ若さが匂う。心のふるわせ方が可愛い。まっすぐ滲むようにだれかを恋しいと思う。高校以来読んでなかったけど、わたし江國さんけっこう好きだ。

結婚はしないとわざわざ宣言するのは、現代の私の感覚からは少し遠い。反発することで自分の意志を確立できる時代は、自由の萌芽が見えながら、未だ不自由が人々の手を離し切らずに引き留めてくれている。枷を振り解く動作に100%の力を込められることが、羨ましい以前にめずらしい。今だって自由かといえば自由じゃないけど、少なくとも上澄みではなんでも好きにしなってみんな優しいから、距離とか意図とかを測りかねてふわふわする。

以前に松浦理英子『最愛の子ども』を読んでよかった。大学より前、家庭とか学校に囲われていた頃の女ともだちは、奇妙に連帯して社会を遠ざけていたかんじがあって、依存というほどではないが、癒着?そういう一抹のあやうさって、友情だとか恋愛だとか、外側にいる人たちは躍起になって分類・解釈しようとするけど、ぜんぜん見当違いなことをしてると思う。言葉をあてがって端に追いやるような雑さというか。
だから裏表紙のあらすじや巻末の解説には違和感を覚えるところもあった(先にこれらを読んでから本編を読み始めたから、そこから予想してた関係とは微妙に違うなって思いながら読むことになった)けど、「恋愛感情というよりは、思いやりやいたわりのような感情で結ばれたあやうい人間関係だ」(p. 326)、「恋愛という型にはまったものではなく、もっと捉えどころのない微妙な感情」(同項)、LoveというよりAffection、のあたりはちょっとちゃんと読んだな。後者が「あやうい」にしても前者(=恋愛)はあやうくないのか笑、とかも思ったけど。

『ホリー・ガーデン』は『最愛の子ども』の彼女たちの続きなんじゃないかと少し思う。日夏と真汐の関係って静枝と果歩に似てるよね。卒業後、ほとんどの友達との関係はあやういところのない適切な距離感で固まっていったけど、よくわからないままとくべつ、という感覚だけで繋がってるその子との関係は、剥がれかけのかさぶたみたいな甘さが残っていて。
それでもやはり静枝と果歩は日夏と真汐とは違うな。日夏と真汐は夫婦だけど、静枝は果歩の姉かな。作中では「小姑」(p. 297)みたいだと語られていた。

本を読みながら埋もれてほしくない箇所には付箋を貼るのだけど、この感覚はわかるなあと思って貼るところと(共感)、この感覚はわからないけど私がこれをわからないから他人を傷つけそうだなあと思って貼るところと(戒め)、自分の身に引きつけてわかるわからないは一旦置いといて、表現やモチーフの使い方が巧いなあと思って貼るところと(巧ポイント)、いやだなあと思って貼るところと(いやだなあポイント)、いろいろあるので何が何だかみたいになってる。
「できるだけ天真爛漫に響くように気をつけて声をだし」(p. 263)の矛盾がひどくて面白かった。私たぶんこれわかる。

巻末の解説、今だとこの解釈はしんどいなって読みが主軸になってて、20年と少しで社会の価値観ってほんとに大きく変わってきたんだなって思う。(群ようこ『猫の住所録』を読んだ時にも思った。今『最高の離婚』の見逃した数話を頑張って見てるけど、たった10年前のこちらもガッガッって引っかかりながら見てる。)今の私たちが必死にぐるぐる考えて頑張って言葉にして紡いでいる価値観も、ほんの数十年で化石みたいになるのかな。このnoteもいつか読み返してヒィってなるとわかっていても、書き記さないといろんなことを思っていたことすら忘れてしまうから、頑張ってたくさん未来の化石を残していくぞ。

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