見出し画像

「象の皮膚」

2022/11/15
佐藤厚志,2021,『新潮』4月号:15-77,新潮社.

良いなと思って読んでいたけどラストの解釈に迷って評価を保留にしてた。ラストをどうやって捉えたらいいかは今もまだよくわからないけど、読めてなかった部分はけっこう発見できた。

震災とアトピーの取り合わせ。震災単体の苦しみではなく元来持っていた苦しみが震災を機に悪化したという観点は完全にわたしになかった発想だったから、こういうものを掬い取るのが文学の仕事だなあと思った。
震災文学としてどう読むかという議論では、本作は少なくとも震災に関するカタルシスはゼロであることが指摘された。災害ユートピアを批判し、むしろ震災前後で変わらない人間の醜悪さを描いている、「貝に続く場所にて」よりもこっちのリアリティが勝るかもとも言われていた。
「非正規の人というのは正規にあらざる人間であり、私は正式な人間ではない人間だ」(p. 25)。これすごい。自動販売機になるという表現に、さらっと死んでいく人々。見落とされがちな日常的に脅かされる生に言及することで震災の悲劇の相対化を図る。授業で聞いた「それとなく排除されている」という表現が心に残った。

アトピーを気味悪がられることに傷ついてきた凛もまた、書店の迷惑客を外見的特徴を捉えたあだ名で呼んでいるという指摘が鋭い。やられたことをやっているという意味ではソノコのエピソードもヲタ活のエピソードもそうで、凛自身も差別や暴力と無関係ではいられない、同じ構造に加担してしまっているのだとその人は言っていた。苦しんでいるその人さえもが内包している暴力性を引き受ける、という点でこの作品を読むのであれば、これを読んで同様の苦しみを抱える当事者が救われるだろうかという批判は少しずれたものである気がしてきた。
ほかにふんふんと思った点は、白銀という最もキャラクター化された人物とのやりとりについて。唯一安心できる人のように描かれていた人が最後に切り込んでくるところは、見くびっていたもの、距離が取れていると思っていたものが狂う瞬間であるとのこと。過剰にキャラクター化された人物造形やゲーム内の彼氏である「ソウイチ」についてどう捉えるかはリアぺに書いた。

健康な皮膚と消化器官…!と思った。皮膚については成長とともに丈夫になっていったから「アトピーって大変なんだなあ」みたいな気持ちで読んじゃった。思い返せばわたしも昔はけっこう皮膚弱かったよな。夏になると足の側面に発疹が出て痒くて毎年辛かったし、冬になると唇の上部に粉が噴くのでステロイドを塗って抑えてた。小1の時に毛虫に刺された(せいだとわたしは思っている)手の甲も冬場だけアトピーみたいになちゃって、それで悩んでいたのに読後もしばらく完璧に忘れてたことにびっくりした。荒れてた手の甲、左右どっちだったかも思い出せん。

あああ胃のキャパちっさい話をまじめに語りたいけどうまく書けないな。痛みは悲劇になるけど痒みは喜劇にされるという書評が面白かった。たぶん同じで過食・拒食は問題になるけど小食はネタにできるのよ、そうなのよ。でもどう考えても悩んでる時間長くない?しょうもなくなくない?と最近思っている…。
社会で見落とされてきた苦しみを掬い取る力が文学にはあると思うけど、それって見つけることも大変でたぶん書くのはもっと大変。取るに足りないと思われてきたことなんだから、ふつう戯言になっちゃうもん。仰々しいのも違うと思うし。
いつかまとまった言葉にできるか?小食の文学……??(しょうもなそう)

**

まじめにリアぺ

授業を経ていろいろな読みどころに気づけたものの、やはり結末の解釈が難しいと思っています。少なくとも震災についてはカタルシスがなく、その点がリアルだと評価されていました。一方、アトピーについては全裸になるラストが虚構的でやや浮いているとの意見もあり、解放→希望となる結末が妥当か否か、そもそもその読みが妥当か否かはまだ悩みたいところです。
希望的なエンドに安易だとケチを付けられる傾向には「氷柱の声」の回で疑問を持ちました。結末が希望的か否かとは別のところに論点がありそうです。同様に、物語の回収に他者からの承認が必要かどうかについても一概には答えを出せません。あらゆる物語が他者との出会いや関わりを通じて良い方向に進む、あるいはそれがないために良い方向に進めないとしたら、それは一義的な価値観を説いてそのほかの生のあり方を否定することにつながりかねません。職場の男に肌を見せて受け入れられるという展開にならなかったのは良い裏切りだったと思います。
悪者的な人物の造形が平板なところは気になりましたが、「非正規」「自動販売機」という論点や、さらっと死んでいく書店員たち、さらに「ソウイチ」という彼氏の存在とも取り合わせて考えてみたいと思いました。視点人物の内面描写のリアリティに反して、それ以外の人物像が極端に平板であることには、有機体としての人間の概念およびその相対化という点で、批評性を見出せるのではないかと考えています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?