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『森へ行きましょう』

2022/02/14
川上弘美,2020,文藝春秋.

留津とルツの人生がパラレルワールドで描かれていく。あったかもしれない道。なんならルナのパラレルなのではと思って読んでいた。
私には、後にも先にもないこの時しかないって瞬間にいちばん適切な小説を引き当てる才能があって、『真鶴』も、『七夜物語』も、『光ってみえるもの、あれは』も、『森へ行きましょう』も、いまこのタイミングで手に取ったのは運命だわって思って読んでる。なんか占いみたいでこわい。もちろんそうでないものもある。『風花』や『蛇を踏む』は中1で読んでもさっぱりぴんとこなかった。でも少なくとも「蛇を踏む」は去年読み返してなんかいけるわ、わかるわと思った。

バスバス刺さりながら読んでいたけど、ところどころおかしみがあって、けっこう声に出して笑いながら読んだ。周囲の男の子の名前、立川くん国分寺くん八王子くんって適当すぎんか。
当時の女性が置かれていた立場も随所に垣間見えて、でもそういう学術的な(?)要素も『三度目の恋』よりナチュラルでよかった。(『三度目の恋』は主に恋愛について、社会学の授業、ギデンズとかのところで聞いたなーみたいな話がなんとなくつまらなかった。『森へ行きましょう』は恋愛の文脈が主軸でフェミニズムの文脈がちらほら顔を出すが、啓蒙的なつまらなさは感じなかった。)

30代後半くらいで疲れてきた。まだ半分もある。それはこの本が、ということではなくて、留津/ルツの人生が、ということ。いったいこの先まだあと何人の男と、人間と、恋したりしなかったり、親密になったり疎遠になったり、入れ込んだり無気力になったりするんだろう。留津もきっと疲れている。だから何も考えないようにしている。「この時期、そうやって留津は自分を守っていたのだろうし、反対に、自分を粗末にしていたのである。」(p. 269)

しかし弘美さんの小説は「今は昔」の世界、未来よりも今と昔を大切に描くから、哀しみや空虚な気持ちはあっても、未来に対する細々した不安は、もしかするとあまり意味のない、、言うなれば皮算用なんじゃないかって思える。
何も考えないようにするのは、たしかに保身であり自傷であり、現実逃避なのかもしれないけれど、未来未来ばかりでなくて、とりあえず今日明日をそれなりに日々過ごしていくことは、むしろとっても現実に即した生き方なんじゃないかしら。つまり、一旦いまはいまで置いとくってのも、たぶんそんなに悪いことじゃないのかなって思いはじめた、けど、どうだろう。

2011年の震災に『水声』のサリンを、47歳の鏡の中の女に『真鶴』の幽霊を感じた。
林昌樹も八王子光男も神原俊郎もこわいこわい。もう出てこないでと真面目に思いながら、出てきた時には「にそにそ」(=にやにや+ほくそえむ?)しちゃう。
付箋を貼った箇所、これ読んで凝縮したら私の考えることって大体ばれちゃうんでは?と短絡的にあやぶむけど、貼りすぎたからもはや何が何だかわからなそうな気がする。いま自分が読んだらさすがにわかるけど、数年経ったらわかるかわからないかは、わからないな。「なんでも帳」あるいは「雑多」に同じ。

(付箋、貼りすぎて、もはや森。)

最初、手に取って"ぶあつっ"と思ったのは本当。30代後半くらいで疲れてきたのも本当。もしかして私は20代くらいのページまでしか共感できなくて、結婚後や出産適齢期以降はうすくパラパラと読めてしまうんじゃないかと、すこしばかり味気なく思う準備をしていた。
けれど、最後の数ページは。

弘美さんの小説に幾度となく出てくる素敵な男の子。彼は在原業平で光源氏で、(また出た、ニシノユキヒコ。)と思いながら読んでる。(こんな男、実際いたら私はまっぴらごめんだわ!)とも。(困った顔しやがって。)とも。
けれどこのニシノユキヒコ(と、私は彼が姿を変え名前を変えて出てくるたびに総じてこう呼んでいる)を、弘美さんは長い年月をかけて大切に育ててきたんだなと思う。本作では、フィクション内の人物として相対化された「瀬崎」が描かれて、あまりにも突然、このニシノユキヒコが立体的な像を結んだ。

本を読んでる時、これはあの子に勧めようかなって考えてる時がいちばん楽しいかもしれない。それって、このポストカードはあの子に送ろうって考えてる時に似ている。
この本はいろんな人にいろんな刺さり方をしそうなので誰にどの点を推して勧めたらいいのかよくわからない。かつて読んだ本とか上演した舞台とか、後輩、友達、いろんな人を思い出した。とりあえずどっかは刺さると思うのでおすすめですよってブロードキャストしてもいいけど、本当は他でもないあなたに!ってかんじで勧めたい。

「なんで文学やつてんの」。
すごく信じている、大切な先輩の自問。私に向けられた言葉ではなかったけど、「二〇一七年 留津 五十歳」を読んでこれを思った。その人は卒業して就職して、でも「自分が文学をやっていたことを忘れたくなくて」と言っていた。私は文学を専攻する勇気がなくて、社会学に身を置きながら文学に首をつっこんでる。だいたいのことに半々くらいで身を置きながら、両方の自分が矛盾しないように分裂しないように、綱渡りするみたいにぎりぎりバランスを取って生きてる。
でも私は本を読むし文章を書くし小説が好きだ。読書は想像力を育みますとか、演劇をやると自分じゃない他者の人生を生きられますとか、ほんとかよみたいな陳腐なPR文を横目にフィクションとかかずらわってきたけど、たしかに私は物語を通していろんな他者を、人生を、あったかもしれない道を生きてる。空想の中で無限の時間を反芻するうちに虚構と現実が倒錯して、フィクションの中にこそリアルがあると本当に思っているくらい。ゆえに現実が疎かになったり粗末にしたりも、たまにする。けれどおそらく、それほどまでに物語は信じられるもので、信じてよいもので、あるいはそれほどまでに現実はおぼつかないものであると、最後はそんなことが書かれていたんじゃないかしら。

これは絶対に何度でも読み返す。
大好きな本。

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