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『三度目の恋』

2021/03/03 川上弘美作

今回の弘美さんなんかイデオロジカルなところがあった。そういう部分は緑、表現がすきな箇所は青、中世仏教風味のところはうすい青、ゼミ論で似た話書いた〜というところはピンクの付箋を貼る。すごい、いろとりどり。

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「昔の章」「昔昔の章」「今の章」の三部に分かれている。夢を通じて、現代の「わたし」は江戸時代の花魁になったり(昔の章)平安時代の女房になったり(昔昔の章)しながら、それぞれの時代の高丘さんに繰り返し出会う。てっきり、昔昔、昔、今、と3回高丘さんに恋する話と思ったが、タイトルの意味は少し違った。一、二は丁寧に描かれるものの、三度目の恋をどう捉えるかは読者に開かれている。この本はむしろ一、二の恋を書きたかったのだろうな。ここは恋愛史について予備知識があるとやや説明過多でうっとおしくも感じる。

というのは、先にイデオロジカルと述べたところで、社会学的な言葉で言えば、自由恋愛、結婚制度、性別役割分業意識、家事労働、社会環境に規定された恋愛感情、男女平等、などなど、近代西欧から「恋愛」の概念が輸入される以前と以後の価値観が引き比べて叙述される。うっとおしかろ?「さかしすぎる女ぎみは、男ぎみから敬遠されてしまう」(p.314)問題とかもう考えたくなくて、川上弘美を開いたのに…。社会学ではリキッドモダニティとか言われる話を、「依って立つ場所が、ものすごく、すかすかしているのです」(p.362)と表現するのは、なるほど、すこし面白かったけれど。

「『子どもができると、女のひとは、強くなる?』
今度は高丘さんが、わたしに聞きました。
『まさか。子どもって、そんなふうに人を鍛えるための道具みたいなものとは、ちがうでしょ』」(p.172)

これもけっこう、可笑しみがあった。

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さだめとか無常といった仏教的なゆるい諦観、それもこれもおしなべて愛しむ平安の気風。『ニシノユキヒコの恋と冒険』のように色男を取り巻く女は連帯し、「蛇を踏む」のように大いなる物語を前に生命は同化する。時間は倒錯し伸び縮みし、ゆらゆらとただよう。

「ほんとうの世界は、ただの断片からなっているだけで、見渡すことなどなかなかできないはずなのに、ぼくたちはみんな、その断片をつなぎあわせて、自分のためのお話をいつも作りあげているんじゃないかな」(p.71)

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そして作品全体への感想とは別に、気に入ったいくつかの節は、やはり上げたくなる。

「相手を慮って、というよりも、あるかないかわからないような微妙な親しみを、踏みこんでいったことによってこわしてしまうことをおそれて」(p.36)

「よく、わからないの。わたくしは、生矢さんが好きよ。でも、わたくしは生矢さんと体をかさねたり、結婚したり、そういうことをしたいとは、全然思わないの。ただ、好きなの。一緒にいると、嬉しいの」(p.48)

「『今日は、すてき』
わたしは素直に言ってみました。
『今日だけ?』
目をまるくみひらいて聞き返す高丘さんに、わたしは笑ってしまいました。
『うん、今日だけ』
『いつもは、すてきじゃないの?』
『いつもは、違うふうにすてきなの』
『あなたも、いつもいろんなふうにすてきだよ』」(p.377)

すてきすぎる。この会話。

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「事は、成る前までが楽しい。……それはたとえば、恋が始まる前のことをさすのかもしれません。あるいは、秘密のはかりごとが実現する前のことを。そのような大がかりなことではなく、記念日にナーちゃんととる、いつもよりも趣向をこらした食事を待っている時間なのかもしれませんし、新しく発売された甘いものを買ってきていざ食べはじめよう、というその瞬間のことであるかもしれません。」(p.282)

【始めてしまったら、いつか終わりが来るでしょう理論】、山田裕幸の『水飲み鳥』という戯曲でも触れられていて、すきだと思った。

「小林 物理の時間だった。先生が、この世に永遠に続くものはないって、それは物理という学問が理論的にそれを証明しているって言ってた。
森 何先生。
小林 中野先生。
森 ああ、いたね。覚えてるよ。
小林 森くんはさ、修学旅行とか、なんか楽しい時間がこれからやってくるってとき、どんなこと考える?
森 それは、楽しむぞ!って、そんなことじゃないかな。
小林 私は、違う。楽しい時間が終わったあとのことを考える。行きの電車の中から、帰りの憂鬱の時間のことばかりを考える。ほんとに馬鹿みたいだけど、そればかり考えてた。何かはいつか終わるんだ、どんなに楽しい時間も、必ず終わりが来るんだって考える。だから、中野先生が言ったことって、ものすごく納得した。だから、物理を勉強しようと思った。」(p.33)

この戯曲、よいので、ぜひ。

山田裕幸「高校生のための戯曲置き場」http://www.uniquepoint.org/gikyokuforhischool/(2021年3月4日)

注:小説の引用は川上弘美『三度目の恋』(中央公論新社、2020年)に拠る。引用に際して適宜ルビを省略した。

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