自分のことについての記録

私が基本的に他人への興味が乏しく、自分の事しか考えない人間であることは、成人して数年経ったところで変わらないのだなと思う。
ここでの「自分の事しか考えない」は文字通りのフラットな意味で、いわゆる「(他人に迷惑をかけても)自分さえ良ければ良い」とは異なる(重複しているというか含まれる概念ではあると思う)。私は自分とはどういう人なのかを考えるのが好きだ。ほぼ趣味だと思う。
私の脳と身体の外にはたくさんの好ましいと感じるものがあるが、これらを好む行為は多分自分がどういう反応をするのかを確認するためにやっている。好きなものについて考えるときは、すなわち「なぜ自分はこれを好ましいと思うのか」を考えることと同義であり、大脳に電極を刺して刺激を与え「へ〜ここ触るとこういう反応するのね」みたいな実験をしているのとあんまり差異がない。一つ一つの事例から自分の感じ方を並べ、比較し、共通項を抽出して、最終的に自分はどういう人間なのかを汎化するのが好きだ。
こう書くといかにも自分を客観的できている人間のようだがそんなことは全くない。自分がどう感じるかにしか興味がないから、他人が自分の言動を見てどう感じるかを想像することはそこまで習慣化されていないのだ。世の中の「人の気持ちが分からない人」には「人の気持ちを理解しようと頑張っているがうまくいかない人」と「そもそも人の気持ちを想像することをあまりしない人」がいると思うのだが、私は後者なのではないかと最近思うようになった。基本的に好きな人と会話するのは好きだけど、これだって「私の脳に好ましい電流を流してくれるとわかっている人」だから好きなんだと思う。
そういえば、他人にもよく「この脳の電極にこういう電流流したらどんな反応を返してくれるのかな」という興味でぽちぽちとボタンを押すように発言してしまうことがある。興味に抗えず「多分これ言われたら嫌なんじゃないかな」ということを言ってしまう時もある。こういう時、「その後自分がどういう風に思われるか」なんてことには一切思考が至っていない。ボタンを押したら反応が返ってくる、これらの出力結果から共通項を抽出して「この人はどういう人なのか(このブラックボックスはどういう出力をする傾向にあるのか)」を分析するのが楽しくてしょうがない。これは本当に良くないので最近はグッと堪えるようにしている。
その割には他人から褒められたりTwitterでいいねがついたりすると嬉しいんだけど、これはどういう仕組みなんだろう。いいねをつけてくれて嬉しい人とそこまで嬉しくない人もいるし、単純に「数」としてのみ見ているわけではないのだろうとは思う。大学でも「この人には褒められたら嬉しいけどこいつには別にどう思われようがどうでもいい」みたいなのはあるし、一応他者個々人からの認識を気にする機能は備わっているんだよな。ただ彼らが私の挙動を見て具体的にどう感じるかについての想像は浅いところで止まってしまう。「褒められたい」「認められたい」と感じている人に対して、私はどういう興味を抱いているんだろう?「その人たちが私を認めてくれているという実感」を快のインプットとして受容している(したい)ということなのかな。実感を与えてくれるくらい表層に出してくれていることにしか興味がないから…。
ちなみに、この日記を読んでくれた人がいたとして、その人がどう思うのかについても一切想像せずに書いている。こういうのって「こう感じてほしい」みたいな目標を立てて書くものなのかな。

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