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2022年 5月 法話会 法話 浄土和讃「智慧の光明はかりなし」

2022年 5月 法話会 法話 浄土和讃「智慧の光明はかりなし」

〇テーマ:はかりない光によってはかりある私の姿が映し出されていく

〇和讃
智慧の光明はかりなし  有量の諸相ことごとく
光暁(こうきょう)かぶらぬものはなし  真実明に帰命せよ

〇法話
皆さんこんにちは。本日は皆さんと共々、阿弥陀様のお慈悲をお味わいさせて頂きたく思います。どうぞよろしくお願いいたします。
本日は正信偈和讃の2首目、「智慧の光明はかりなし 有量の諸相ことごとく 光暁(こうきょう)かぶらぬものはなし  真実明に帰命せよ」というご和讃をお味わいさせていただきたいと思います。まずこちらの和讃について解釈をさせて頂きます。

〇解釈
「智慧の光明はかりなし」といいますのは
→阿弥陀如来のおさとりから放たれるおひかりは、とても量り知ることができません。
 という意味です。

「有量の諸相ことごとく」といいますのは
→いつの時代も、どんな国のどのような衆生もみな という意味です。

「光暁(こうきょう)かぶらぬものなし」といいますのは
→如来様のおひかりを受けて、煩悩の闇をはらし、明るい世界につつまれないものはいません。 という意味です。

「真実明に帰命せよ」といいますのは
→真実の智慧の如来である阿弥陀如来におまかせしましょう。 という意味です。

本日は「有量」に焦点を当ててお話をしていきたいと思います。「有量」とは下から読んで、量り有ると書き下し出来ます。これはどのような意味なのでしょうか?そのヒントとなるものは、親鸞聖人がおつくりになられた和讃の本の中にあります。「左訓」と呼ばれるものです。これには親鸞聖人の注釈がついています。

有量について左訓にどのように書かれているかといいますと、(左訓見せる)「有量は世間にあることはみな量りあるによりて、有量という。仏法は、際ほとりなきによりて、無量というなり」と記されています。つまり有量というのは限りがあるもろもろのすがたのことです。

世間は皆、量り有るであるものばかりでございます。もしこのひと時が一生続けばよいのにと思っても、永遠には続かず、時をコントロールするということは不可能です。時間も空間も限られた中で、私たちはいのち限りある生を歩んでいます。

そんな私たちはこのまま人生をどのように歩んで行っていいものなのか、不安に思うこともあるかもしれません。どのように生きていけばよいのか、途方に暮れてしまうかと思います。

自分でそのままの自分の姿を見ることは出来ません。ですから皆さんは自分を見る時に、鏡を使うかと思います。鏡を使うと、我が身が受けた光を鏡が反射して放たれた光が像となって初めて私たちは目にすることができます。光のないところに影は生まれませんし、姿は映し出されません。光を通して自らの姿を見ることで自分の愚かさや至らなさを知らされます。そのように、如来様の教えに照らされてはじめて、私の心が映し出され、「煩悩だらけであった」と気づかされるものです。

そんな煩悩の闇の中において光を仰いでいくことを「光暁」と親鸞聖人はお示しになりました。この私の煩悩の姿に気づけば気づくほど、真実の阿弥陀様のひかりを仰がずにはいられません。そして、阿弥陀様のおさとりのひかりがこの「私」を照らし、大きなはたらきがこの「私」を包み込んでくださっていることに気づかされます。まさに阿弥陀様の光と大きなはたらきは、阿弥陀様そのものであるのです。自分自身の煩悩の闇を抱えたままであっても阿弥陀様のみ教えを仰いでいくことが大切であるのだということをこの左訓からも親鸞聖人は教えてくださっております。

最後になりますが、阿弥陀様の智慧のひかりは私たちを照らしてくださいます。私たちは「どうかわが名を称えておくれ、南無阿弥陀仏の六字の名号を称えておくれ」というご本願のよび声のままに、お念仏申させて頂きましょう。また阿弥陀様の大きな光に包まれながら、お念仏申させて頂けるありがたさのままに、お念仏の日々を歩んでまいりましょう。

本日はようこそのお聴聞でございました。

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