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法話会 浄土和讃 法話「仏光照曜最第一」

2023年3月18日彼岸会法話会 副住職法話
正信偈和讃6首目「仏光照曜最第一」

〇今回この和讃にグッと来たポイント…
道が開けるだけでなく、さとりの道があきらかになり、すべてのものをさとらせ仏に入らしめる。如来様のお手回しです。

【和讃6首目】
仏光照曜最第一 光炎王仏となづけたり
三塗の黒闇ひらくなり 大応供を帰命せよ

【現代語訳】
〇仏光照曜最第一 とは
阿弥陀仏の光明が照らし輝くさまは、十方世界にひろくゆきわたり、諸仏の光明に勝るひかりです。

〇光炎王仏となづけたり とは
諸仏や太陽など、あらゆる光明の中で阿弥陀仏のひかりは最もすぐれているものであるため、炎王光とも呼ばれています。

〇三塗の黒闇ひらくなり とは
それは諸仏の光明の照らさない三悪道(三塗…地獄/餓鬼/畜生の三つの道のこと)まで至り届いて、闇を破り、極重の悪人を救います。

〇大応供を帰命せよ とは
まさに一切衆生の供養を受けるにふさわしい資格を具えておられる阿弥陀仏をたよりとせずにはいられません。 という意味です。

【まとめると】
阿弥陀如来の光明のかがやきのすぐれていることは、とても諸仏の光明の及ばないところにあります。ですから光炎王仏と申し上げます。このようなすばらしい徳のある、大応供とも讃えられる阿弥陀如来に帰命しなさい。という意味です。

まず【言葉の意味について】説明します。
①光炎王仏とは、光明の中で最もすぐれた光明の仏ということです。王という意味は自由自在の意味と尊貴の意味の2つの意味があります。(聖典セミナー)

1つには「三塗の黒闇をひらく」というのは自由自在の意味であります。

2つには諸仏の光明の及ぶことができないすぐれた光であるというのは尊貴の意味であります。

次に
②ひらくとは、開くではなく啓く。啓蒙の啓の字。
辞書的意味は啓く…閉じたものをあける。未知のものを明らかにする。教えみちびくという意味があります。「三塗の黒闇ひらく」とは、地獄、餓鬼、畜生の苦を受けている人がその苦がなくなり、法を聞くようになり、浄土に往生してさとりをうることです。

次に
③大応供…応供は仏の十種の名の一つであり、価値のある人のことです。
尊敬すべき人のことです。ほかの人からの供養を受けるに十分相応すべき人です。ここでの供養とは仏徳讃嘆。すべての煩悩を断ちきって他人の供養を受ける資格のある人などの意味です。。


【光炎王とは/出処】
光炎王とは『仏説無量寿経』に「三塗の勤苦の処にありて、この光明を見たてまつれば、みな休息を得てまた苦悩なし」(意味:この光明に照らされるものは、煩悩が消え去って身も心も和らぎ、喜びに満ちあふれて善い心が生れる。もし地獄や餓鬼や畜生の苦悩の世界にあってこの光明に出会うなら、みな安らぎを得て、ふたたび苦しみ悩むことはなく、命を終えて後に迷いを離れることができる。)とあり、曇鸞大師の作られた『讃弥陀偈』に「仏光照曜すること最第一なり」「三塗の黒闇光啓を蒙る」と釈されるように、迷いの果を滅するはたらきをあらわし、そのひかりはこの上ないという意をあらわす。

【例話】
弘教寺スクールの生徒は小学生から高校生までいるのですが、子どもたちは私にあらたな選択肢を示してくれています。以前生徒たちとボードゲームが行いました。台の上に積み木を載せていくというゲームなのですが、購入した時ピースが1つだけ大きく、すべての積み木を載せることはできませんでした。なので中学生にも今まで積み木をのせられたことはないし、今後も無理だと思うと話していました。確かに、インターネットでのせ方を検索して真似しても1つ大きすぎるピースがあるので上手くのせることはできません。しかし中学生は何度も可能性をチャレンジして、結果載せることが出来ていました。決して成功しないと思っていた現象を見た時に、自分が考えていたことは頭が固かったのだなと深く反省させられました。そしてこの私に、中学生は完成図を教えてくれて、どうしたらこのピースが台の上にのるのかを教えてくれました。これは阿弥陀様がご用意くださるおさとりの世界にも似通うところがあるのではないかと感じました。この私が考えることを超えた、智慧のまなざしで究極のおさとりをお考えなのが仏様です。この私に生きる意味の尊さを伝えはたらきかけて下さっています。


【まとめ】
今回は「炎王光」ということで、諸仏の仏様のおひかりや太陽などの自然光など、あらゆる光明の中で阿弥陀様のひかりは最もすぐれているものであります。そしてその光はこのわたくしの煩悩を滅するはたらきをあらわし、この上ないものであると仏説無量寿経には説かれました。わたしたちは、阿弥陀仏の光によって生かされて生きています。ひかりによって暗い闇に囲まれている私たちの心の中が照らされ、私の姿が映し出されたときに、この私が見えていなかった、閉じた心がひらかれていくということです。光によって照らされ、この私に届いているということは、自分の正しい、正しくないと思っていたことからはなれさせ、自らに選択の基準はなく、ただ仏様の仰せのままであるとうけとめさせていただくということです。私は、身にあまる幸せをいただいていることを感謝せずにはいられません。最後に大応供は、阿弥陀様は供養に応ずる徳のあるお方という意味ですが、そんな阿弥陀様への供養とは仏徳讃嘆です。ご恩報謝のお念仏申し上げましょう。




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